神のみこころとは

 

 もしあなたが、イエスは神の御子キリストであり、自分の罪を十字架で贖ってくださったと信じ、洗礼を受け、キリストの弟子となると決めたなら、その後はどうすれば良いのでしょう? ただ口で信じて救われた所で終わりでしょうか? 使徒はこう言います。


キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです(第二コリント5章15節)。」


 キリストの望みとは、それぞれがもはや自分のためでなく、キリストのために生きるようになることです。では、キリストのために生きるとはどういうことでしょう? 神、キリストが私たちに望まれている生き方とは一体何でしょう? 神のみこころとは一体何でしょう?  


父のみこころ

 

 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。(第一テサロニケ4章3-6節)


 使徒はここではっきりと、「神のみこころ」とは、信徒が自分を聖め、不品行を避け、聖潔を得る行いをすることだと教えています。しかし、人は信仰によって救われるのであって、行いによってではない、とも言われています。行いを強調すると、プロテスタント教会では信仰義認を前に出し、構える傾向があります。では「信仰義認」と「行い」にはどんな関係があるのでしょう。


アブラハムの信仰と行い


 かつてローマ•カトリック教会は「行いによる信仰」を重要視しし過ぎて、「信仰による義」を軽視し、腐敗しましたが、その反動からか、プロテスタント教会は「信仰による義」を重要視しし過ぎて、「行いによる信仰」を軽視するようになっているようです。どちらもバランス感覚が欠如する可能性があります。そういう点で、聖書は非常に難しいものともいえます。ひとつの御言葉だけに信仰を置くことは危険です。全体を把握しなければならないのです。では、まず信仰による義について見てみましょう。


 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていま すか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた(創世記 15章6節)。」とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。(ローマ 4章2-5節)


 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ5章1節)


 使徒パウロは、人はその行いによって救われるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって神の義とされると教えました。そして創世記のアブラハムの実例を出し、アブラハムは行いによって義と認められたのではなく、神の御言葉を信じる信仰によって義と認められたではないか、と説明しています。間違いなく、人はその行いではなく、キリストを信じる信仰によって救われ、罪赦され、神と和解し、神との平和を持つのです。これが「信仰義認」であり、御霊による神の恵みです。人の善行が認められたので信仰が与えられ、罪赦されて救われる訳ではありません。善行に罪を消す力はありません。救いは神の憐れみです。

 確かにアブラハムは信仰によって義と認められました。しかし、使徒ヤコブは、同じくアブラハムの実例を挙げながら、「人は行いによって義と認められる」とも言っているのです。


 ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。(ヤコブ2章20-24節)


 これはどういうことでしょうか? 救いは人の行いの結果ではなく神の恵みではありませんか? どちらが正しいのでしょう? 実はどちらも正しいのです。

ではアブラハムの実例をもう一度再確認してみましょう。彼は神を信じて、その信仰によって義とされました。しかしその後、息子イサクを犠牲に捧げるよう、神に命じられる試練に会いました(創世22章)。アブラハムはこの大きな試練の中で非常に苦しんだことでしょう。百歳でようやく与えられたひとり子のイサクです。誰よりも彼を愛していました。彼を失えば、もはや子供はいません。しかし、神はイサクが生まれる以前に、イサクから出る子孫によって世界を祝福すると、アブラハムに約束していたのです。


 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。(創世17章19節)


 神はイサクと契約し、イサクには子孫が与えられるという約束を、アブラハムは信じていました。しかし、ではなぜ神はそのイサクを殺せと命じるのでしょう? もしイサクを殺せば、この神の約束はどう成就するというのでしょう? アブラハムには大きな誘惑があったはずです。天に向かって、何とひどい神だと怒って、イサクと一緒に神の御前から去って行く自由もありました。いくらなんでもそんな神の命令には従えませんと反抗することもできたでしょう。

 しかし、もしアブラハムが、神を信じていると口では言いながら、神の命令に背いてイサクを捧げなかったとしたらどうでしょう? アブラハムの信仰は実は口先だけで、実際は神の言葉を信じていなかったという結論になってしまいます。しかし、アブラハムは神の約束を疑わずに信じていたのです。ですから、たとえイサクを捧げても、神は必ず約束を守って、イサクをよみがえらせ、契約を結んでてくださると信じたのです(ヘブル11章17-19節)。

 神はその「アブラハムのわざ」を見られ、その信仰の行いによって彼を義としました。アブラハムは神の命令を行ったことで、神への愛を示したのです。アブラハムが信仰の父というゆえんはここにあります。彼は信仰によって義と認められ、行いによってその信仰が全うされ、実現され、義と認められたのです。

 つまり、信仰に行いが伴わないなら、実際は信じていないのと同じ意味であり、むなしいということなのです。人は口で告白して救われて信仰による義を得ても、行いで義と全うされなければ、神に知られないのです。

 「じゃあ、信仰義認は無効ですか?」と言う人がいるでしょう。信仰義認が有効か無効かは、その後にその人が神のみこころに従ったかどうかで、さばきの日に明らかにされるのです。その人が本当に信じたかが、行いによって明かされるのです。

さて、ではアブラハムは行いによって義とされ、聖潔を得てから、神のような聖人になったのでしょうか。いいえ、相変わらずの人間だったのです。私たちも同じで、この世では神のように完全にはなれません。しかし、神は私たちに、この世で行いにおいて完全になるよう望んでおられます(マタイ5章48節)。しかし、神になることは望んではおられないのです。

 「完全な聖化なんてないなら、いくらがんばっても無駄ですね」と思うかもしれません。もしそう思うのなら、きっとその人は、行いにおいて完全な神になりたいと思っているのではないでしょうか? 地上にいる期間、神は聖徒に、神のみこころを行い、完全を目指し、神の栄光を現すよう望んでおられますが、この世で神になれるとはおっしゃっていません。神はサタンではありません。


聖潔


 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6章19-23節)


 使徒は、人は信仰によって義と認められ、聖潔に至る実を得たと言います。聖潔とはアブラハムのように神のみこころを行い、キリストの身たけにまで成長することです。それは永遠のいのちに行き着くと書かれています。しかし、もちろんそう簡単ではありません。実は、私たちには大きな問題が起こっているからです。


 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません

 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません

 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(ガラテヤ5章16-25節)


 私たちは生まれながらに肉によって生まれ、肉に従って生きていました。しかし、主イエスを信じた時、私たちは義とされ、私たちの肉に御霊が内住して下さったのです。信徒の内に住んでおられるのはキリストの御霊です。キリストは共にいて下さるインマヌエルの神なのです。

 こうして私たちは聖霊の宮となり、聖霊を内に宿す者となりました。しかし、いまだに肉のからだの中にいることには変わりません。肉の願うことは御霊に逆い、御霊は肉に逆らいます。この二つの力は常に対立していて、いつも私たちを引っ張り合っています。信じて救われ、御霊が内住した日以来、この肉と御霊の戦いが私たちの内で繰り広げられ始めたのです。それは肉を征服する神の国の戦いです。

 肉と御霊、どちらの言うことを聞くかは、実際のところ私たちの自由です。神は私たちに信仰の自由だけでなく、行いの自由も与えられています。神のみこころを行う自由も、行わない自由もあります。しかし、信仰告白をしているから安心と思って、肉に従って生き続けるなら、それはキリストの御霊を悲しませます。しかし、神を本当に信じて、愛しているのなら、愛する神のために、その命令に従おうとするのは当然のはずです。つまり、自分の内側にある肉を十字架につけ、肉と戦い、御霊なるキリストに従おうと努力するはずです。もし従わないのなら、神を愛してはいないのです。


 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3章17,18節)


 これが聖化の過程です。私たちが神を愛し、御霊に従うなら、御霊は私たちを徐々にキリストに似た者と変えさせて成長させるのです。ひょっとすると、その歩みの速度は遅いものかもしれません。三歩進んで二歩下がり、というような非常にじれったいものかもしれません。時には迷って、方向がずれてしまうときもあるかもしれません。しかし、真の信仰者は、間違いを悔い改めて、必ず約束の地に向けて歩み始め、着実に成長して行くのです。そして人が御霊に満たされた時、私たちはキリストに似たものとなり、神の似姿に近づいて行くのです。

 キリストの御霊が私たちの肉の心を徐々に征服して行く時、御霊の実が実り、それによってこの世に神の栄光が現れるのです。


 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます

 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。(コロサイ3章1-14節)


 主が来られる時、私たちは主によって栄光化され、変えられます。その時、私たちは真に神の御子キリストに似た完全な者とされるのです。その完成は神のわざの勝利です。その日までは、私たちの目標は、主を愛してキリストの身たけにまで達するよう、御霊によって成長し、古い人を脱ぎ捨て、新しい人となって、上を目指して聖潔を得ることです。それが命令なのです。私たちはその命令を守ることによって、神への愛を表すのです。


 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。(ヤコブ1章22-25節)


 すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。(ヘブル 12章14節)


神を愛すること


 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3章13,14節)


 パウロのような大使徒でさえ、自分はまだ途上にあると言っています。パウロは、信じた後はもう何もしなくても天国ですよ、とは教えません。パウロは信仰を実現させるために、目標を目指して一心に走り、努力して狭い門から入ろうとしていたのです。

 では、なぜそこまでして努力したのでしょう? ただ神の国に入りたいから、がむしゃらなのでしょうか? 天での報いが欲しいからだけでしょうか? もちろんそれもあったでしょうが、それが第一ではありません。第一の理由は、神を愛するがゆえにです。


 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4章10節)


 神は、アブラハムが愛するイサクを捧げたように、愛する御子イエスを私たちのために犠牲にしてまで、私たちを愛して下さったのです。その愛の大きさを知って感動し、神を愛したからこそ、使徒たちは信じたのです。そしてその愛への応答として、神のみこころを行おうと、後ろの者を忘れて一心に走ったのです。「神を愛するとは、神の命令を守ることです」(第一ヨハネ5章3節)だからです。


 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4章18,19節)


 たとえば、もし誰かを愛したら、その人に愛を表したくなるでしょう。それは様々な形となって現れるでしょう。美しく装ってきれいに見られたいとか、立派なところを見てもらいたいとか、愛していると口で告白するとか、気を引かせようとすること等、方法は様々です。好きな人に嫌われたいとは決して思わないでしょう。同じように、神を愛したなら、神に嫌われるようなことはしないはずです。愛してはいないけれど相手の財産だけが欲しいという人がいたら、それは全くの自己愛でしょう。また、さばきが恐ろしいからという理由から、無理矢理に神を愛そうとしても、それは無理でしょう。恐れる者の愛は全きものになっていないからです。

 神を愛する努力とは、神を愛するがゆえの努力なのです。嫌々ながらするものではありません。ですから、その行いは強制ではありません。自発的なものです。律法の戒め「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」が動機にある行動です。あれこれをしなければならない、してはならない、ではなく、神を喜ばすためにあれをしよう、これをしよう、なのです。


 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。(マタイ6章1-2節)


 神のみこころを行うことは、神を愛する思いから始まり、神にその愛を知ってもらうことが目的です。それは隣人や兄弟を愛することに現れて行きます。しかし、もし良いことをしたとしても、人からほめられることが目的だったならば、それは自分を愛することであり、神には知られていないのです。自分自身のために生きる古い人を止め、キリストのために生きる時、その愛を神は覚えていてくださるのです。私たちの肉の行いの罪のために、キリストは死なれたのです。キリストを殺した私たちの肉を憎まないのは、恩知らずではありませんか。


キリストの弟子


 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

(マタイ28章18-20節)


 キリストは昇天する前に、弟子たちに宣教を命じ、信じて救われた者にバプテスマ(洗礼)を授け、キリストの弟子とし、キリストが命じたことを守るように教えなさいと語られました。

 では、キリストの弟子とはどういう者でしょう? 弟子訓練という言葉が流行っていますが、気をつけなければならない点は、弟子とは「牧師の弟子」ではなく、「キリストの弟子」であるということです。弟子訓練をした牧師が、された信徒を支配したり、自分の弟子にしたりすることは決してあってはなりません。「この人は私の弟子です」という牧師がいたら、その人はキリストの弟子ではなく、カルトの教祖でしょう。そのような牧師や教師について行ってはいけません。

 キリストの弟子とはどういう人物か、キリストご自身が教えてくださっています。


 わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカ14章26,27節)

そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。(ルカ14章33節)


 実に厳しい言葉ですが、自分の肉親、自分の命、自分の財産を捨てて、自分の十字架を背負ってキリストについて行く者、それが本当のキリストの弟子です。

 「そこまでする必要がありますか」というのなら、もちろん「必要」はありません。しかし、キリストを何よりも愛しているなら、そうするだろうということです。なぜなら、キリストは私たちを救うために命を捨ててまで助けてくださった方だからです。キリストの花嫁となる教会は、父と母とを離れ、何よりもまずキリストを愛します。キリストを愛するからこそ弟子となるのです。

 ただ軽く信仰告白をして、あとは神よりも自分の肉親、自分の肉、財産を愛し続け、自分に与えられた十字架を放棄する人は、キリストの弟子ではありません。キリストの弟子とは、主と共にこの世と自分自身の肉と罪と戦い、キリストの訪れを待ち望む者です。

「私は神より肉親を愛します」という人は、残念ながらキリストの弟子にはなれません。神よりもこの世や肉を愛する人は、最終的には自分を愛しているからです。


祈りの結果


 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。(ヤコブ4章3節)


 さて、悪い動機で願うことは叶えられないと使徒は言いました。ではもし願いが叶ったならそれは動機が良かった、いうことでしょうか? 私たちはそう考えがちです。私が正しいから願いが叶ったのだ、と決めてしまうのです。もちろん「神のみこころ」に沿っていれば願いは叶えられます。しかし、神のみこころは必ずしも自分の願いと一致しているわけではありません。逆の場合もあるのです。キリストご自身がそうでした。主イエスは十字架を望んでいたわけではありません。


「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ 26章39節)


 キリストは自分の願いではなく、神のみこころを祈ったのです。もし願ったことが叶えられたら、それは正しい動機だったというのなら、金を願って繁栄した信徒は神に認められた正しい信徒、貧しい信徒は悪い動機なので神に認められずに貧しくなった罪人とも言えかねません。しかし、それは間違いなく律法主義の思考です。パリサイ人は実際に豊かで、祈り願ったことはすべて叶っていた人でした。決して悲しむ人ではありませんでした。ですから、貧しい者たちを見下し、あわれむこともしなかったのです。しかし、その最後はどうなったでしょう?

 求めるものは何でも与えられるから具体的に祈りなさい、と教える人たちもいます。しかし、聖書では、そのような成功が、必ずしもその人に良い結果をもたらすとは教えていません。むしろその逆かもしれないのです。


 彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた。そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた。(詩編106篇14,15節)


 神の民イスラエルは、エジプトを脱出する際、主の大いなる奇蹟を見ていました。彼らはエジプトの奴隷から神の自由人となりました。しかし、約束の地へ向かう途中で荒野に導かれると、イスラエルの民はすぐさま不平を言い始めました。神は彼らに天からマナを降らせ、養って下さっていましたが、彼らはエジプトの暮らしを思い出し、激しい欲望から肉を求めました。彼らは荒野で御霊に満たされることよりも、奴隷に戻って肉を満足させたくなったのです。その時、神は彼らの願いを叶えて、うずらを降らせました。しかし、その結果は死病でした(民数11章)。

 神は彼らの願いを叶えることによって、彼らをさばいたのです。ですから、肉によって神に求めたものが与えられたからといって、その成功は、実はさばきかもしれないのです。彼らは動機と行いが悪かったので荒野で滅び、約束の地には入れませんでした。

祈りの動機が肉から来ている場合もあるのです。自分で自分をだましてしまう時もあるのです。ですから、悪い動機で願ったことが叶ってしまった場合、ひょっとすると大変なことになるかもしれません。ですから、動機を自己吟味しなければいけません。祈りは神のみこころを求めることが土台でなければいけません。肉の願い事ではいけないのです。


 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。(ヤコブ4章4節)


「それではキリストを信じても何の徳にもならないですね」、と言う人がいるかもしれません。しかし、聖書によると、そういう人は実はキリストを信じていないのです。

または、「それは旧約時代だけのことでしょう?」という人がいるかもしれません。いいえ、使徒は手紙で、同じことが私たちにも当てはまると言っています。


 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。

 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。(ヘブル3章16〜4章1節)


荒野の意味


 主によって信仰を与えられ、奴隷の家から脱出した後でも、私たちは人生の荒野で試練に会います。水も木もない荒野は絶望的に見えます。簡単な旅ではありません。その上、悪魔は私たちにこうささやきます。「こんな荒野に導くなんて神はあなたを愛していないのだ。さあエジプトへ帰ろう」。ある人はその言葉を信じて、エジプトに戻っていくことでしょう。

 私たちは、時に荒野の厳しさに不平を言い、後ろを振り返って肉を願い求めたくなります。試練の中で迷うこともしばしです。しかし、なぜこんな辛い荒野を神は通らすのでしょう? その答えは、実は前もって教えられているのです。

 かつて荒野の40年の後、約束の地カナンに入る直前に、モーセはイスラエルの民に向けてこう語りかけました。


 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。(申命8章2-6節)


 主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。(申命8章14-16節)


 神は、私たちを荒野の試練にあわせることで、私たちを吟味、訓練されているのです。そしてその行程をいつも見守り、荒野で養って下さいます。荒野は何のためでしょう。聖書によると、それは私たちを約束の地に入れて、幸せにするためなのです。決して最後に不幸にするためではありません。神は私たちを愛しているので、あえて荒野を通すというのです。そして、それが私たちに必要なのです。もし私たちが本当に神を信じているのなら、この神の御言葉に従って着いて行くはずなのです。

 「こんなに辛い荒野を通るなら、もう戻りたいです」という人がいたら、残念ですがエジプトに戻るほかありません。エジプトには確かに一時的な肉の満足はあるでしょう。しかし、それは必ずむなしい結果になると信じています。なぜなら、そこには真の神がいないからです。その最後はこの世と共に滅ぶ道です。

 もちろん、私たちは荒野の中で、いつも神のみこころを行えるとは限りません。悪魔にだまされて御霊を悲しませることもしばしばあるでしょう。迷走することもあるでしょう。しかし、道を間違えてしまった時に、悔い改めて、もう一度約束の地を目指し始めることを主は望んでおられます。約束の地への正確な方向を指し示すものが聖書の御言葉です。ですから御言葉にいつも照らし合わせて生きなければいけません。主は荒野の行程を見て、終わりの日に幸せにして下さるのです。私たちはいつか荒野を感謝する日が来るのでしょう。


主イエス•キリストの教会への手紙


 黙示録の中には、キリストご自身が七つの教会に対して送った手紙があります。それはすべての教会に与えられているメッセージでもあります。それぞれの教会を評価する主イエスの基準を見てみましょう。その基準は、常に教会の「行い」にあります。エペソ教会に宛てられた手紙を見てみましょう。


 わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。(黙示2章2-5節)


 主イエスはこの世の荒野に置かれている教会の「行い」「労苦」「忍耐」をすべて知っています。この世の荒野が辛いこともよくご存知です。その上、教会は外部からだけでなく内部からも常に攻撃にさらされています。しかし、主イエスはその状況を今日もじっとご覧になっています。

 私たちは長い信仰生活において、最初に主イエスを愛した時の初々しい気持ちを、いつのまにか忘れてしまうこともあります。しかし主イエスはその場で教会にさばきを下すのではなく、悔い改めて、原点の愛に戻り、神のみこころの「行い」を全うするよう勧めます。


 サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。(黙示3章1-3節)


 恐ろしいことですが、サルデス教会のように、人には生きている教会と思われていても、主イエスから見れば死んでいる場合があるのです。なぜかというと、その「行いが神の御前に全うされていない」からです。彼らは自己欺瞞に陥っていました。不安になりたくないからと、自分自身をだまして、自分は大丈夫と安心していたのです。しかし、主はここでも教会をさばかず、悔い改めを勧めます。


 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。

また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』(黙示3章14-22節)


 最後のラオデキア教会に対しては、ほめる所はなく、ただ厳しい叱責があります。このラオデキア教会の問題点は、現代教会のそれに非常に似ています。富んで豊かになり、安心していることを誇り、自分の真の姿が見えなくなっている状態です。信徒数を増やすことに必死で、経済的に豊かになって、教会堂を建てることが、真の教会形成ではありません。神殿を誇ったパリサイ人は滅びました。それらを誇ることは、かつてのパリサイ人がしたことと何ら変わりません。エルサレム神殿は絶頂で崩壊しました。それは私たちへの教訓でもあります。そういうことを言うと、それは教会堂のない者や弱小教会のひがみと思われるかもしれません。しかし、教会は建物ではなく人そのものであることは聖書の真理です。ですから教会は、信徒のひとり一人の信仰と行いが重要なのです。しかし、それは目には見えない教会建築です。誰の功績かといえば、それは人ではなく、神のわざなのです。

 ここで気づくのは、主イエスはラオデキア教会の中側にはおらず、外側でドアをノックしていることです。教会から主イエスが閉め出されているのです。教会はドアを開けるでしょうか? それとも耳をふさいで閉じたままにしておくでしょうか? 主イエスは「熱心になって、悔い改めなさい」と警告しています。信仰に入る時に悔い改めたら、それ以降は悔い改めなくても良いと思っている人がいますが、それは大間違いです。でなければ、なぜ主イエスは教会に対して悔い改めを勧めるのでしょう。主イエスは今も、私たちを愛しているからこそ、心配して叱ったり、懲らしめたりして、悔い改めさせるのです。愛していなければ、何も言わずに、そのまま滅びるに任せておくことでしょう。御霊は常に教会に向けて愛のゆえに警告しているのです。


御霊に逆らう


 黙示録の七つの教会だけでなく、いつの時代でも教会には問題があります。そして教会が低迷するのは、決まって教会自身の罪が原因です。正しい教理が隠蔽されていたり、偽りを信じていたり、世俗化を許す時、真理の御霊は消え、教会は弱体化します。御霊は罪を指摘しますが、肉に従って御霊に逆えば、それはかつてのイスラエルと同じ道を歩むことになるでしょう。


 「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」

 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した(使徒7章51-57節)


 ステパノは、イスラエルの指導者に対してキリストの証人となり殉教しました。彼らは肉のままの者であり、聖霊に逆らい御霊の人を殺したのです。ステパノの事件のように、教会の権威の座についている者が、新生していない肉のままの者ということもあります。そうなると、肉のままの者は御霊によって生まれた信仰者を迫害します。それはパリサイ人が主イエスに対して行ったことと同じです。また、教会の歴史を見ても明らかです。そのために多くの聖徒が殉教しています。


 しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。(ガラテヤ 4章29節)


 御霊に逆らうのは肉です。ですから教会は御霊が語られていることをよく聞かなければなりません。御霊の語ることは聖書と決して矛盾しません。真理を指し示すのは御霊です。それを聞かずに背いて、肉に従えば教会も裁かれます。真理に背く罪は他の罪とは違い、決して赦されない罪になるとキリストは警告されています。


 だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。(マタイ12章31-32節)


神の家のさばき


 なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。(第一ペテロ4章17-18節)


 世の終わりに、神は神の家である教会からさばきを行うと警告しています。だからこそ、教会に警告しているのです。主イエスは終末の日の状態をこう預言されています。


 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。

 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。

 まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。


 主イエスが戻られる日、主はまず教会からさばきを始められます。主は今まで、この世の荒野の中で奮闘する教会をご覧になりながら、時にはマナを降らせて養い、悔い改めを勧めて来られました。しかし、今まで決してさばかなかった主が、この日はさばき主として帰って来るのです。

 その日、「しもべ」たちはふたつに分けられます。しもべというのは教会外部の人たちではありません。教会内部の信仰告白者たちです。忠実なしもべは、主人が不在でも、主人に喜ばれようと目を覚まして、命じられていたことを行っていましたが、悪いしもべは、主人の言葉に背いて悪を行っていました。悪いしもべは主人をなめており、うまく利用しようとしただけで、実際は愛してなどいなかったのです。地上の肉のことだけを思い、主人への忠誠はなかったのです。そして、忠実なしもべは神に取り去られ、悪いしもべはそのまま地上に残されます。このようなたとえ話は福音書の中に沢山あります。

 この時にしもべが地上に残されることは恐ろしい罰です。なぜなら、最後の時代に起こる地上のさばきは、凄まじいものになると知っているからです。残された者は泣いて歯ぎしりをしますが、時既に遅しです。


 「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』

 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」(ルカ13章24-30節)


 キリストの救いは狭き門です。広き門は偽りです。もし救いは広き門だと教える人がいたら、その人は聖書に反することを教えるにせ教師です。もし広き門を信じて眠りこけ、聖潔を求めず不品行を続け、自分は主と一緒に食べたり飲んだりしているから大丈夫と安心していたとしても、最後には、門が閉じられ、主イエスに拒絶されるという憂き目に遭うのです。彼らは荒野からエジプトに戻っていて、その信仰は全うされていなかったのです。


 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。(ガラテヤ6章7-9節)


 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、私たちの罪だけでなく全世界のための、なだめの供え物なのです。

 もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。(第一ヨハネ1章9-10,2章1-6節)


 使徒たちは再三にわたり、信徒に罪を犯さないようにと勧めています。しかし、この肉のからだにある限り、私たちは罪を犯してしまいます。しかし、何度失敗しても悔い改めて主に向く者を、神は許して下さいます。その回数に際限はありません。もちろん、天に召される寸前に救われて、行いを見せる暇もないこともあるでしょう。しかし、救われてからは命の続く限り、愛して下さった主人を愛し、そのみこころを行うために生きるのがキリストの弟子です。時間の長さは関係ありません。信仰生活が長くても、短くても、召された時から主のもとへ行くまでの間、どれほど主を愛して忠実だったかが重要なのです(マタイ20章)。告白は行いによって証明されるのです。

 行いはそれぞれの人生の荒野で答えが違います。それぞれの歩みの中で、それぞれが神を愛して行った隠された行為を、主イエスは覚えていて下さるのです。そして、最後に良くやった、忠実なしもべだと褒め(ルカ19章12-27節)、その血でしもべを聖め、義とし、報いを与えて下さいます。しかし、もし口先だけの悪いしもべなら、主はその人のことを何も覚えていないのです。主は不従順な悪いしもべをさばきます。もはや聖めの血はないのです。 一度信仰告白をしたら、どんな悪行を続けていても救われているなどという偽りを信じてはいけません。その悪の実は不信仰のあかしです。信仰は実によって見分けなければなりません。しかし、真に救われている者は、たとえ一時的に不信仰に陥っても、必ず悔い改めて戻ります。ですから、私たちは軽々しく神の審判のようなさばきを人に下してはいけないのです。


神の武具


 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです

 邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ 6章10-19節)


 私たちは救われて御霊が内住した日から、自分の内にある肉と戦い始めます。しかし、それは個人的な戦いに見えて、実は暗闇の世界の支配者、悪魔との戦いなのです。それは真の神の国の訪れのための戦いです。私たちの内にある御霊の内住から神の国は始まっています。それを奪回されないよう、肉と戦わなければなりません。しかし、策略家の悪魔に対して、私たちは非常に弱い肉の存在です。そして、周りは死の荒野です。どう戦えば勝利を得られるというのでしょうか? 無防備ならすぐにやっつけられてしまうでしょう。しかし神は、使徒を通して、私たちに神の武具をしっかりつけて戦うよう命じています。

 エペソ人への手紙には、そのリストが書かれています。「真理」「正義」「平和の福音」「信仰」「御霊の剣である神のことば」「御霊による祈りと願い」です。これを整えて戦わなくてはいけません。


 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(ヤコブ4章7-10節)


 神に従うということは、神のみこころを行うことです。その上で悪魔に立ち向かえば、悪魔は私たちから逃げ去ると教えられています。もしみこころに背いて、不品行を続けているなら、決して勝利は与えられません。神の愛のしるしである十字架をかかげ、主の帰って来られる日まで、御霊に導かれて荒野を通り、聖潔を目指し、神の待つ約束の地を思い進みましょう。

 主の日が来たら、悪魔の支配は完全に壊滅し、私たちの心にあった神の国が、地上にも現れます。それが本当の幸福なのです。その日まで、神は励ましのために、教会に沢山の預言を下さいました。それを希望に、走るべき道のりを走り終えられるようがんばりましょう。


 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(第一コリント9章23-27節)


 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(第二テモテ4章6-8節)


【教会の戦い】に続く