教会というもの

 

 神の民の失敗は常に、内部腐敗の問題から起こります。それはイスラエル民族誕生の時からまったく変わっていません。聖書にはその悲しい歴史が描かれています。キリストの使命を果たす教会は、常にこの世の中にあり、内部腐敗と戦って来ました。もちろん初代教会も例外ではありませんでした。使徒たちも、教会の内部腐敗と戦い、手紙を書いて警告しました。その手紙はどの時代の教会にも必要な書簡です。

 

律法主義

 

 キリストが非難した律法主義も教会の中の戦いのひとつでした。

「行い」を間違って重視し過ぎると、律法主義になります。では、そもそも律法主義とは一体何でしょうか? パリサイ人の間違いは何だったのでしょう。

 モーセの律法の基準は実は非常に高いものでした。ですから、律法の下では誰もが罪人になってしまい、誰ひとり義人になれず、安心できませんでした。しかし、もともとモーセの律法の目的は、人は誰も神の律法を全うできないこと教え、悔い改めに導くために与えられたものでした。しかし、それではみなが罪人になってしまいます。そこでパリサイ人は、自分たちを義人にしようにと、律法を守れるように解釈して、それを守れる人を義人に、守れない人を罪人にしまったのです。

 

 モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」(マルコ7章10-13節)

 

 パリサイ人は律法を自分たちのレベルに引き下げ、律法を私的解釈し、自分が決めた律法基準を作って義人となり、自己満足していました。例えば、親への感謝を表す行いに導く律法を、「コルバン」とひとこと言えば、親には何もしなくても大丈夫という風に変えてしまったのです。こうして親孝行しなくても、誰からも罪人と非難されなくなりました。彼らは狭き門を広き門へと変えて、変質させてしまったのです。ですから律法主義者たちは自分を罪人とはまったく思っていませんでした。

 彼らは豪奢な神殿建築を誇り、礼拝を厳守し、什一献金を納め、経済的な祝福を誇っていました。しかし、「公義と神への愛」はおざなりだったのです(ルカ11章)。その上、彼らは彼らの作った基準を守れない人を罪人と見下していたのです。彼らは自分は神に認められているから、そのような行いができているのだと思っていました。

 また、姦淫の女を石打ちにしようとした律法主義者たちは、実際に罪を犯した場合が罪であって、心の中で犯す罪は罪ではないと思っていました。ですから自分たちは義人で、女は罪人でした(ヨハネ8章)。しかし、主イエスは彼らに、心の中で罪を犯したことの無いものが、最初に石を投げなさいと言われました。実は誰もが罪人だったのです。

 では、みなが去った後に、主イエスは女に、結局誰も罪に定めないから、これからも罪を犯しても大丈夫と教えたでしょうか? いいえ、「今からは決して罪を犯してはなりません」と戒めたのです。律法のとおり、罪は犯してはいけないのです。パリサイ人はその点は間違ってはいませんでした。しかし、女に悔い改めを迫り、罪を犯さないように諭す愛は、彼らにはなかったのです。

 

このような律法主義は初代教会にも見られ、使徒たちは警告しました。しかし、現代の教会にも、形を変えてこのようなことは見られるのではないでしょうか。教会堂を建てることが「教会」を立ることだと勘違いし、信仰義認にあぐらをかき、礼拝も献金もしているから大丈夫、自分には悔い改めは必要ないと安心し、自分のようにできていない他の人たちを見て、自分たちと同じようにしなければならない、と思っているのではないでしょうか? バランスに気をつけなければならないと思います。

 また、律法主義を十分理解しておらず、「罪を戒めること」がすなわち律法主義だと思う人たちもいます。そういう人たちは、兄弟が罪を犯していても、何も戒めてはならないと言います。実はそれは律法主義ではありません。無律法主義です。

 

無律法主義

 

 初代教会の時代、「信じるだけで義と認められる」という教理を曲解し、信じて洗礼を受けた後は、神の恵みの下にいるのだから、もういくら罪を犯しても大丈夫、と主張する人たちが起こりました。そうなると、信仰告白さえしていれば罪はないと思うので、その後の行いが以前より悪くなっても、悔い改める必要もないことになります。このような背教を無律法主義といいます。

 使徒たちはそのような人たちについて、厳しく戒めています。

 

 というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。(ユダ1章4節)

 

 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。(ローマ6章15-18節)

 

 信仰告白をしたら、もう「恵みの下にあるのだから罪を犯そう」とそそのかし、恵みを放縦に変えた人々を、使徒たちは厳しく糾弾しました。彼らは肉の生活を続け、異邦人よりもひどい不品行を行っても、恥さえ感じなくなっていたのです。それは、神のみこころを侮り、神の報いだけが欲しくて、神の愛を裏切っているのと同じでした。この背教に従うと、教会はこの世よりも堕落してしまう危険性があるのです。

 

にせ預言者

 

 もし教会に「いやしや預言」の賜物を行う人がやって来て、神の御名によって多くの奇蹟の行ったとしたら、その人は間違いなく神の人と思っても大丈夫でしょうか? 奇蹟の賜物は、聖書に書かれているので、その存在は否定できません。一見、善い行いをしているようにも見えます。では、そのような賜物(カリスマ)を持つ人たちの奇蹟の行いが、その人の信仰の正しさを表すと言えるでしょうか? 奇蹟を見て、この人はキリストのような人だと、その人の言っていることを何でも信じて大丈夫でしょうか? その行いは神のみこころと思っていいでしょうか?

 

 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。(マタイ7章21-27節)

 

 

 終わりの日には、主のさばきが行われます。しかしその時、ある人たちは、主の御名によって奇跡や預言などを行いました、と主張するのですが、主イエスは彼らをまったく覚えていません。なぜなら、彼らは不法も行っていたからです。奇蹟を起こしていても、「神のみこころ」を行っていないならば、主は全く覚えていないのです。つまり、奇蹟の行いがその人の信仰が認められている証拠ではないのです。

 

 あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るためにあなたがたを試みておられるからである。あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。(申命13章1-4節)

 

 この律法にあるように、たとえ奇蹟が実現しても、それだけでその人の言うことを鵜呑みにしてはいけないと定められています。実はそのにせ者を通して、私たちが神を愛するかどうかを知るために、試されているのかもしれないのです。ですから、その人が正しい教理を土台に福音宣教していなかったり、その行いの実が悪かったならば、警戒しなければなりません。賜物は見せ物にもなりがちです。自分を大きく見せようとして吹聴する人だったり、キリストの福音よりも他のことを重視している人は問題です。

使 徒パウロは、愛を御霊の賜物のリストの最上位に置きました。賜物は愛がなければ何の値打ちもないと書かれています。

 

 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。(第一コリント13章1-8節)

 

 ですから奇蹟のわざを行う人が現れても、その人に愛がないなら、そのわざもむなしいのです。しかし、その人が言葉と行いにおいて正しい愛の人ならば、神に感謝しましょう。

また、「主よ、主よ」、とただ信仰告白するだけの者も同じです。信仰義認を主張したとしても、行いによる信仰が全うされていなかったなら、主イエスは覚えていないのです。主イエスに知られる行いとは、第一に「父のみこころを行うこと」だと、主はここではっきりと語られています。

 

にせ教師

 

 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ4章11-16節)

 

 教会にはそれぞれの指導者や奉仕者が立てられています。しかし、この御言葉をもとに、教会指導者は神が立てた権威だから、「神が認めた正しい人」に違いないと、盲従してはいけません。では、その人物が神が立てた本物の奉仕者かそうでないか、どうやって見分けるのでしょう?

 神が真に立てた奉仕者とは、キリストの満ち満ちた身たけにまで人を成長させる人です。聖徒たちをそのように整える役割をしていない奉仕者がいれば、その人は神の立てた奉仕者ではあるはずがありません。ですから、その人は御言葉の教えに矛盾がなく、良い行いの実も実らせているはずです。社会的に認められているとか、学校を出ているとか、人気があるかどうかではありません。

 

 しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。(第二ペテロ2章1-3節)

 

 人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。(エゼキエル34章2-6節)

 

 かつてのイスラエルにも初代教会にも、にせ者が群れの権威を取ることがありました。彼らは決して神が立てた者たちではありません。にせ預言者やにせ牧者の特徴は、聖書と合わないことを教えるだけでなく、羊を養わないことです。にせ者は羊から毛を刈って自分を肥やすだけで、羊を食い尽して育てません。なぜなら、自分を愛しているだけで、羊を愛していないからです。彼らにとって羊とは、ただの家畜、えさなのです。彼らの共通点はその貪欲さです。結果として、羊は食い荒らされ、散らされてしまうのです。

 ですから、もし奉仕者が福音に関して間違ったことを教えてたり、その牧会に貪欲があるなら、「御言葉をもって」プロテスト(抗議)すべきです。真のプロテスタントとはそういうもののはずです。しかし、その時に気をつけなければならないのは、その群れの秩序を乱したり(第一コリント14章40節)、礼義に反する方法ではいけません(第一コリント13章4,5節)。何よりキリストはこうも言われています。

 

 そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。(マタイ23章1-3節)

 

 主イエスの時代、律法学者たちはモーセの座を占めていました。モーセの座とは、群れの権威です。彼らは神が自分に権威を与えたのだから自分は正しいと思っていたのです。しかし、彼らは神が立てた者たちではありませんでした。もしそうだったなら正しいことを言ったキリストを十字架につけることはなかったでしょう。

 このようなことはいつの時代もあるのです。しかし、秩序を守るために、権威にはまず従わなければなりません。感情的に手段を選ばないで非難するのは罪です。指導者が間違っていると判断したら、まずはその悪い行いをまねてはいけません。次によく吟味した上で、ただ御言葉によって、愛を持って問いましょう。ひょっとすると、その人はにせ者ではなく、ただ無知だっただけかもしれません。悔い改めが与えられるよう祈りましょう。しかし、もし逆に、信徒や教師が御言葉によって正しいことを語ったのに、かえって群れを追われることになったなら、それは主が覚えておられます。その罪はその群れが負って、良い実はならなくなるでしょう。教会の歴史は、そのように追放された聖徒たちが沢山いたことを物語っています。

        

不従順な子ら

 

 教会には、にせ牧者、にせ預言者といった貪欲な狼が現れるだけではありません。信徒側の方にも、好んで間違った教えに着いて行く不従順な子らが出てくると聖書には預言されています。

 

 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(第二テモテ4章2-4節)

 

 教師が御言葉通りに正しいことを伝えても、信徒側が聞き従わないということがあります。耳に痛いことを言われると教師に対して反抗し、自分の都合の良いことを言ってくれる教会にしようとしたり、そういう教会を探そうとします。都合の良いことを言う広き門の教会は、にせ教師やにせ預言者の教会です。もし不従順な子らが多い時代なら、そういう教会が隆盛を極めるでしょう。しかし、真理は多数決ではありません。

 こうして、信徒側の無知や不従順が、にせ預言者を太らせ、勢力をつけさせてしまう可能性があるのです。ですから、聞きたいことを語ってくれる人ではなく、聖書の御言葉を語ってくれる人を求めなければなりません。しかし終わりの時代にはこのような傾向が強まると使徒は言っています。私たちの時代はどうでしょうか?

 

 愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現われる。」この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。疑いを抱く人々をあわれみ、火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。(ユダ1章17-23節)

 

 終わりの日には、あざける者たちが現れると預言されています。それは教会外ばかりでなく、教会内でも同じです。聖書の真理よりも、自分たちの欲望の方を選ぶ肉の人たちです。真理を提示しても、自分に気に入らない部分は切り捨てるか、あざけるかします。彼らが悔い改めるよう祈りつつ、また自分自身も気をつけましょう。

 

教会内部と外部のさばき

 

 パウロは、教会外部の未信者と教会内部の信者に対する扱いを分けています。未信者の人たちは、そもそも神を信じていないのですから、不品行を行っていたとしても、ある意味仕方ありません。彼らを救うためにも、私たちはキリストの使節として、交際しなければなりません(第二コリント5章20節)。しかし、パウロは、教会内部の信者の罪に対しては、決して容赦しませんでした。

 

 私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。(第一コリント5章10-13節)

 

 近年の教会で、教会政治が正しく機能し、戒規をまともに行っている教会はどれほどあるでしょう? 教会員が罪を犯しているのを、しっかりと戒め、悔い改めを迫ることのできる牧師や長老はどれほどいるでしょう? 今やほとんどいないと言ってもいいかもしれません。また、さらにひどい時には、罪を大目に見る理由に、指導者たちも同じ罪を犯しているからという場合もあります。

 しかし、使徒パウロの厳しさは格別です。なにもそこまでしなくても、と私たちの時代は考えます。それは私たちが自分自身のことだけで、他の人のことも、教会全体のことも考えていないからです。愛があるから許しているようで、愛がないから許しているのです。実は無関心なのです。ですから、見て見ぬ振りをして、勝手に許し、自分は愛の行為をしたと自分を偽ってしまうのです。

 今では恐ろしいことに、無法を許さないと逆に愛がないと言われます。しかし、それは本当に聖書の語る愛ではありません。実際に愛がないのは、無責任に許して、不品行を悔い改めさせないでそのまま放置し、警告もせず、その人自身が終わりの日に神にさばかれる可能性があるのを、見て見ぬ振りをすることです。聖書をしっかり読めば、そんな放任を指示する御言葉はひとつもないことが分かります。

 何でも許して行けば、教会は無律法主義に陥って行きます。その結果、教会は聖さを失います。外部の人たちは、そんな教会の行状を見て、キリスト教を馬鹿にすることでしょう。そうして神の御名が汚されるのです。すなわち、かつてイスラエルの民の行いが悪くて、異邦人によって神の御名が汚されたように、私たちの行いによって、神の御名が汚されてしまうのです。そうして結局のところ、教会外部の人たちも救われなくなってしまうのです。もし神を愛しているなら、神の御名が傷つくことが許せないはずです。

 

 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです

 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5章13-16節)

 

 主イエスのこの命令通り、教会は地の塩、世の光となり、良い行いをし、その結果、周りの人々が神を褒めるようになるためにあるのです。教会が聖さを失えば、もはや何の役にも立たず、人々からも見下されるだけです。その結果、神の御名もけなされます。だからこそ、悪魔は教会を世俗化し、役に立たぬようにしようとするのです。

 かつて日本の教会が聖さを求めた頃は、外部の人々は信じていなくても、教会に敬意を表しました。戦国時代のキリシタンを悪く描くドラマはめったにありません。彼らの聖い行いは、400年を過ぎても、いまだに日本であかしになっています。また、明治維新以降のキリスト教徒の良い行いも、戦後日本のキリスト教のイメージを上げました。しかし、近年の教会の状態はどうでしょうか?

 もう一度、考え直さなければならない時期に来ていると思います。

 

キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです(第二コリント5章15節)。」

 

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」

(第一コリント6章19-20節)

 

平和と愛

 

 真の教会は神のもたらす平和の実現です。この世の作り出す平和は、真の平和ではありません。どちらか一方がもう一方を支配し、力で屈服させて戦いを止めさせるという状態は、真の平和とはいえません。また、真の平和は妥協の産物でもありません。一見平和に見えて、心の中は戦争というような地上の平和は幻です。しかし、キリストの十字架によって、バラバラだった人々の隔ての壁が打ち壊されてひとつの体となる時、真の平和は神によって現れるのです。

 

 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。(エペソ2章14-17節)

 

 ですから、主にある兄弟姉妹は、キリストにあるひとつの体であるからこそ、互いにキリストの御体として敬い合い、愛し合わなくてはならないのです。なぜなら、キリストの器官にはそれぞれの働きがあり、どの器官もなくてはならないものであり、どの部分も大切だからです。

 

 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(第一コリント 12章27節)

 

 たとえば、正常な細胞は自分の与えられた働きを全うし、体を健康に維持するために働きます。しかし、異常な細胞は、自分の与えられた働きを捨て、自分のために自己増殖する癌となり、体を不健康にします。互いが与えられた賜物を用いて、自分の働きを全うし、お互いをいたわりあう時、そこに秩序と調和が生まれるのです。それをなし得るのは、キリストにあってのお互いの愛です。

 キリストは教会に新しい戒めを与えました。それは互いに愛し合いなさいという戒めです。キリストの体である兄弟姉妹を愛する時、この世に真の愛と平和が実現するのです。その愛はこの世の愛とは全く違います。

 

 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ 13章35-36節)

 

教会とは

 

 キリストを信じ、聖霊を受けた者たちは、キリストにあってひとつとなるのです。いつか花婿キリストの体なる花嫁なる教会が完成する日がきます。地上の教会はそのひな形です。教会を立てるということは、教会堂を建てることではありません。企業のように、人数の多さを誇ることでもありません。牧師がピラミッドの頂点に立って、会社の社長のような組織を作ることでもありません。キリストにあって生きる人々が、お互い励まし合い、愛し合うのであれば、たとえ教会堂がなくても、数は小さくても、それはキリストの目にかなう教会なのだと思います。

 

【教会のリバイバル】に続く