イスラエルの再興 


弟子たちの質問

 

 イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。(マタイの福音書16章)


 キリストの再臨について学ぶ前に、「時のしるし」のひとつを見てみましょう。

 次のキリストと弟子たちの会話を見て下さい。これはキリストが復活し、昇天する直前の弟子との会話です。


 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」(使途の働き1章)


 弟子たちは、復活したイエスを見て、イエスが本当のキリストだったと知って大喜びでした。そこで得意になって「イスラエルの再興」の時期について聞いたのです。

 さて、弟子たちが望んでいたこの「イスラエルの再興」とは一体何のことでしょう? それはユダヤ教徒であれば、誰もが望んでいる出来事なのです。キリストは、それはもう起こらないとは言われませんでした。その時は神が定めていると答えただけです。では、その鍵となるイスラエルの歴史を学びましょう。


神の民

 

  旧約聖書には、イスラエル民族(ユダヤ人)の歴史が書かれています。ノアの息子セムの子孫にアブラハムという人物がいました。神はアブラハムと契約を結び、カナンの地を与え、アブラハムの子孫によって多くの国々が祝福を受けると預言しました。しかしまた、その子孫に対しては次のような預言を与えました。


 日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。そこで、アブラムに仰せがあった。

「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」(創世15章12-16節)


 実際にこの預言は成就します。アブラハムの息子イサクはヤコブを生み、ヤコブからイスラエルの12部族が生まれます。イスラエル民族はカナンの地に住んでいましたが、ひどい飢饉が起こり、一家をあげてエジプトに移住します。しかし、エジプトはバビロン文明の影響を受けた帝国でした。ひとりの権力者が多くの人間を支配する国です。いつしかイスラエル民族はそこで奴隷にされ、苦しむようになりました。しかし、彼らにはアブラハムの預言がありました。いつか神がこのエジプトの罪をさばいて、イスラエル民族をカナンに脱出させて下さるという希望です。

 400年後、ついにモーセが神に召し出され、エジプトの王に警告に行くよう命じられました。もちろんエジプトの王は聞き入れません。そこで神のさばきがエジプトに下され、過ぎ越しが起こったのです。

 エジプトを脱出したイスラエル民族は、その後荒野へと導かれ、モーセの仲介によってシナイ山で律法を授けられました。イスラエルは神と契約を結び、正式に神の民となりました。

 神の民となったからには、他の民族(異邦人)に同化してしまわないように、食物規定や行動規定が定められ、十戒が与えられました。またそこには、偶像礼拝、呪術、占いを禁じる定めがありました(申命記 4 章 16-19 節、18 章 10-12 節)。それはバビロン文明の対極でした。こうしてイスラエルの民は、神の民としての生きる指針が与えられたのです。


律法の「祝福」と「のろい」


さ て、契約とは、契約を遵守した時の約束と、違反した時の罰則が書かれます。神とイスラエルの契約にもそれがありました。それが「祝福」と「のろい」です。


 もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される(申命記28章1,2節)


 イスラエルが神の言葉に聞き従い、神の律法を行って生きるなら、神は大いなる「祝福」をイスラエルに注ぐという約束がここで提示されました。しかし、逆にイスラエルが神に聞き従わず、律法を行わないで、神に背いて生きるなら、契約違反の罰として、次の恐ろしい「のろい」が下ると提示されました。


 主は、あなたと、あなたが自分の上に立てた王とを、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった国に行かせよう。あなたは、そこで木や石のほかの神々に仕えよう。主があなたを追い入れるすべての国々の民の中で、あなたは恐怖となり、物笑いの種となり、なぶりものとなろう。(申命記 28章37節)


約束の地カナン


 イスラエルは契約を了承し、正式に神の民となり、先祖アブラハムの約束の地カナンを征服して行きます。アブラハムの預言通り、その子孫は約400年ぶりにカナンの地に戻って来たのです。それは、そこに住むエモリ人の罪が、400年の間に積もり積もって、神のさばきが下るほどにまで極まったからです。カナンの地の住民は、偶像礼拝だけでなく、子供を神々のいけにえに捧げる風習や、性的な堕落で、悪が頂点に達していました。

 イスラエルの民は、そんなカナンの地を神に代わってさばく役割を担い、土地を次々に征服して行きました。それはイスラエルの民が正しかったからではなく、カナンの住民が悪かったからでした(申命9章5節)。

 その後、士師の時代を経て、イスラエルはダビデ王によって王国が確立し、その子ソロモン王によってエルサレム神殿が建てられます。これが第一神殿と呼ばれるものです。


エルサレム 世界の中心


 神である主はこう仰せられる。「これがエルサレムだ。わたしはこれを諸国の民の真中に置き、その回りを国々で取り囲ませた。(エゼキエル5章5節)


 エルサレムは、アブラハムがイサクを捧げたモリヤの山の上に建てられた都です。そこに神の宮が建てられました。世界地図を見ると、この御言葉どおり、エルサレムを中心に諸国があることが分かります。日本では日本を中心にした地図を見ていますが、世界ではこの見方が標準です。ですから日本は世界から「極東(far east)」と呼ばれるのです。基準は今でもエルサレムなのです。

 

 カナンに定住したイスラエルの民は、次第に律法に背いてカナンの因習に染まり、他の神々の偶像を拝み始めました。それはイスラエルの神との契約を破る姦淫の罪でした。神は何度も、預言者たちを遣わし、民を戒め、警告し、悔い改めさせました。しかし、重なる契約違反の罪のために、後に王国は、イスラエル王国とユダ王国のふたつに分裂してしまいました。そして、北のイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされます。残ったユダ王国に対して、預言者エレミヤは、次のように預言しました。


 それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかったために、見よ、わたしは北のすべての種族を呼び寄せる。主の御告げ。すなわち、わたしのしもべバビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この国と、その住民と、その回りのすべての国々とを攻めさせ、これを聖絶して、恐怖とし、あざけりとし、永遠の廃墟とする。わたしは彼らの楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、ひき臼の音と、ともし火の光を消し去る。この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。(エレミヤ25章8-11節)


  神は確かに律法の契約を履行されました。神の言葉に聞き従わなかったイスラエルの契約違反の罪のために、エルサレムはバビロン軍に包囲され、 ソロモンの第一神殿は破壊され、民はバビロンへ捕囚となって連れて行かれたのです。


バビロン捕囚からの帰還


 さて、神は「のろい」を下されたら、それきりで終わりなのでしょうか? もう望みはないのでしょうか? いいえ、律法には「祝福」と「のろい」の後に、もうひとつ「回復」の約束もあったのです。


 私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。(申命記30章1-4節)


 バビロンに捕囚されたイスラエルの民は、神がイスラエルの罪のために、律法の「のろい」を下したことを痛感し、悔い改めます。以来、イスラエル民族は偶像崇拝を完全に止めました。そして、信仰を持っていた者たちは、この律法の「回復」の希望を胸に、帰還を持ち望みました。


 メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。(ダニエル9章1-2節)


 預言者ダニエルは、エレミヤの預言を読み、エルサレムの荒廃期間が70年間であると知ります。そして、民族の犯した罪を告白して悔い改めます。しかし、民が帰りたいと願っても、自由にはできません。その時、神は時の権力者ペルシャ王クロスを用いて 勅令を出させ、イスラエル帰還を可能にさせました。クロスは異邦人でしたが、イスラエルの神を敬う王でした。


 ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」(第二歴代36章22-23節)


 そして、実にバビロン捕囚から70年後、イスラエルは律法と預言の約束を胸に、イスラエルに帰還し、エルサレムに第二神殿を再建します。その次第はエズラ記、ネヘミヤ記に書かれています。


希望


 バビロン捕囚のユダヤ人の心を支えた預言をもうひとつ紹介しましょう。


 神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く。わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。彼らは二度と、その偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を汚さない。わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを救い、彼らをきよめる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる

 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行なう。彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。」(エゼキエル37章)


  彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く。わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。彼らは二度と、その偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を汚さない。わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを救い、彼らをきよめる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行なう。彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。」(エゼキエル37章21-28節)


 預言者エゼキエルは、バビロン捕囚の時代にこの預言を伝えました。いつか世界中からイスラエルの民が帰還する時、ダビデの子孫なるキリストがやって来て神の王国を作るというのです。

 エゼキエルがこの預言を伝えた時、ダビデ王はもはや過去の人でした。ですから、ここに書かれているダビデとは、ダビデの子孫に現れるキリストのことです。キリストがダビデの子孫に生まれることは、多くの預言者によって語られていたことは学びました。

 帰還したイスラエルにキリストの王国が現れるという希望を胸に、イスラエルの民はバビロンからエルサレムに戻り、神殿を再建したのです。あとはダビデの子孫であるキリストを待つばかりだったのです。旧約聖書の歴史はそこまでです。それから新約聖書までの間は中間時代と呼ばれ、聖書には記述がありませんが、外典のマカベア書にその詳細が書かれています。


マカベア戦争


さて、バビロンから帰還し、第二神殿を再建して、後はキリストを待つだけというイスラエルでしたが、その後、大変な戦いに巻き込まれます。しかし、預言者ダニエルは、神殿に起こる恐ろしい出来事を前もって預言していました。キリストが来る前に、神殿に恐ろしい人物が現れるというのです。


キティム(ギリシャ)の船が彼に立ち向かって来るので、彼は落胆して引き返し、聖なる契約にいきりたち、ほしいままにふるまう。彼は帰って行って、その聖なる契約を捨てた者たちを重く取り立てるようになる。彼の軍隊は立ち上がり聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き荒らす忌むべきものを据える。(ダニエル書 11:31)


 ギリシャ帝国は、アレキサンダー大王の死によって四つに分裂しましたが、そのうちのひとつがセレウコス将軍の立てたセレウコス朝シリアでした。そのシリアの王アンティオコス•エピファネスが、エルサレムの都にやって来て、「荒らす忌むべきもの」である異教の偶像を据えたのです。彼はユダヤ人をギリシャ化しようとしました。しかし、ダニエルの預言通り、イスラエルは勝利し、宮をきよめます。これを記念して「宮きよめの祭り(ハヌカ)」ができたのです。この出来事は、終末の時に現れる反キリストのひな形となります。

 その後のイスラエルは、内乱のためにローマ帝国に支配されてしまいます。国としての体裁はあっても、実質はローマの属州になったのです。新約聖書にも登場するヘロデ王は、ローマによって任命された王で、ユダヤ人ではありませんでした。彼は紀元前20年頃からエルサレム神殿の大規模改修工事を始めます。そのために国の財は費やされ、貧しい者たちは重税に苦しみました。人々は約束のキリストを待ち望みました。


 このような時代に、イエス•キリストがベツレヘムにお生まれになったのです。このヘロデ王がベツレヘムでキリストを殺そうとして、幼児を殺害したことは有名です。その後、キリストが宣教を始め、十字架にかかり、復活した意味については学びました。キリストはちゃんとエルサレムに来られていたのに、残念なことにイスラエルが拒んでしまったのです。

さて、復活したキリストに、弟子たちがイスラエルの再興の時期を聞いたのはなぜか、もうお分かりでしょう? このイスラルの再興を成就するキリストを、誰もが待っていたのです。それはユダヤ人であれば誰もが持つ希望でした。弟子たちは復活したイエスが、イスラエルをすぐに再興してくれるのではと期待したのです。


エルサレムへの預言


 十字架にかかる前に、イエスはエルサレムに来て、改修工事中の第二神殿を弟子たちと見ていました。弟子達は、その豪華さに感嘆の声をあげていました。しかし、ひとりイエスだけは神殿を見てこう預言しました。 

 

「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます」(ルカの福音書21章6節)。 

 

 弟子達はイエスの言葉に驚きました。こんなに壮大な建造物が崩される日が来るなど、考えることも出来なかったからです。しかし、イスラエルには再び律法の「のろい」が下されようとしていたのです。なぜなら、神の遣わしたダビデの子孫であるイエス•キリストを拒むからです。

 イエスはエルサレムに子ろばに乗って入城し、ゼカリヤの預言を成就したことは先に学びました。民衆は大喜びでキリストを迎えました。しかし、その時イエスだけは、エルサレムの都を見ながら涙を流され、その悲惨な未来をこう預言していました。


「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ」(ルカ福音書19章42〜44節)。


宮きよめ

 

「イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた。『『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。』」(マルコの福音書11章18節)。

 

 当時のイスラエルの指導者達は堕落しており、パリサイ派、サドカイ派などが現れました。彼らは宗教的に熱心であっても、律法の本質を行っていませんでした。遠方から巡礼に来るユダヤ人の弱みにつけ込む商売を宮で許し、利得を得ていたのです。また、貧しい人や病人は罪人とさげすまれ、ほっておかれました。真の律法の精神はまったく無視され、不品行が横行していました。しかし、この民には聖なる「神の御名」がついていました。ですから世界はその行いを見て、イスラエルの神を見ていました。「神の御名」はイスラエルの民の堕落のために、異邦人の間でおとしめられていました。宮に入ったキリストは、まるで強盗の巣(エレミヤ7章11節)となっていた宮をきよめました。イエスはイスラエルの指導者達に向かってこう言っていました。

 

「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。』と言います。こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。あなたがたも先祖の罪の目盛りの不足分を満たしなさい。

 おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。

 まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。

 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。(マタイ23章29-38節)(参照:ルカ11章48〜51節)

 

 キリストは、今まで遣わされた預言者たちを拒んだ責任をこの時代が問われ、律法の「のろい」が再びエルサレムに下ると警告しました。そして、その罪の目盛りの不足分は、キリスト殺害で満たされることになるのです。

 公に非難された指導者たちは、キリストの最後の警告を無視し、キリストを憎み、どのようにして殺そうかと相談し始めました。しかし、自分達の力ではできないと考えた彼らは、敵であったローマ帝国の権力に頼るという方法を選んだのです。彼らはイスラエルの神ではなく、この世の闇の神であるローマ皇帝の権力に頼って、遣わされたキリストを十字架につけたのです。こうして、彼らの罪の目盛りの不足分が満たされました。 


エルサレムへの福音

 

 キリストが十字架につけられ、罪の贖いを完了し、三日目に復活した意味については先に学びました。キリストの昇天については重要な部分なので後で学びます。

 さて、ペンテコステに聖霊を受けた弟子たちによって、福音は教会によって、まず最初にエルサレムに語られました(使徒の働き2章)。こうしてエルサレムは世界で最初に福音で満たされた都となったのです。しかし、エルサレムはその福音をも拒否しました。たとえ無知の故にキリストを十字架につけてしまったとしても、この時悔い改めていたなら、赦されていたのです。しかし、キリストを迫害したように、彼らはキリスト教徒をも迫害したのです。こうして、エルサレムは最後のチャンスを逃してしまいました。

 沢山のキリスト教徒がエルサレムから追放されましたが、彼らは出ていった先々で福音を伝え始めました。こうして福音はエルサレムから出て、地中海世界に急速に広り、当時世界の中心であったローマに伝わって行くのです。新約聖書にはそこまでの出来事が書かれていますが、その後に何が起こったかについては書かれていません。それを学ぶことは非常に大切です。エルサレムへの預言がいかにして成就したかがよく分かるからです。


ヨセフスの「ユダヤ戦記」


 さて、新約聖書後のエルサレムの姿を書き残している文献があります。ヨセフスの「ユダヤ戦記」です。「ユダヤ戦記」には、イスラエルがいかにしてローマと戦争を始め、悲惨な最期を迎えたかが書かれています。著者のヨセフスは、当初ユダヤ軍側の指揮者の一人で、ローマのヴェスパシアヌス将軍と戦っていました。しかし、ガリラヤ地方のヨタパタの戦闘でローマ軍に敗け、投降したのです。ヨセフスは、ヴェスパシアヌス将軍が将来ローマ皇帝になると予言し、命を取り留めました。果たして、ネロ皇帝が暗殺され、ヨセフスの言った通りヴェスパシアヌスがローマ皇帝となり、ヨセフスは皇帝の信頼を受けることになります。こうしてヨセフスはローマ側の人間となり、ユダヤ人にローマへの投降を勧める役割を担いました。そして、ローマ皇帝の庇護のもと、同胞の苦難であるユダヤ戦争の記録を書き残すことになったのです。この歴史書のおかげで、エルサレムにどのようにして預言が成就したかを知ることができます。

 

戦争の足音

 

 キリストの十字架の約30年後、紀元64年頃、エルサレム神殿は約80年間の改修工事を終えて完成しました。絢爛豪華なエルサレム神殿と堅固な城壁の完成を見て、人々は誇りました。しかし、まさにそのような絶頂期に、恐ろしいことが突然起こったのです。

  当時、長年にわたるローマ総督の圧政に不満がつのっていました。民の我慢は限界となり、次第に平和的方法ではなく、武力に頼る様になっていきました。しかし、ローマ総督に反抗することは、すなわちローマ帝国に対する反抗とみなされます。ローマ総督はそれをいいことに、やりたい放題をしていました。ついに、民は耐えきれなくなり、駐屯していたローマ軍に襲いかかりました。

 当時のローマ皇帝はネロでした。ネロは、名将ヴェスパシアヌス将軍と息子のティトスにユダヤ制圧を命じます。このような地方の反乱を鎮めなければ、他の属州でも反乱が起こることになるからです。こうしてローマ帝国はその帝国の威信をかけ、ユダヤ制圧に力を入れたのです。

 ローマ軍は次々と武力でユダヤを制圧して行きました。反乱分子はみなエルサレムの都に逃げ込んで行きました。堅固な城壁を持つエルサレムを陥落させない限り、ローマの勝利はありません。 ローマは大軍を引き連れて、刻々とエルサレムに近づいて行きました。人々はこれから何が起こるのか、その恐ろしさをまだ知りませんでした。 自分たちが神のキリストの和解を退けてしまっていたことが分からなかったのです。神の「のろい」が預言通りにエルサレムに下ろうとしていました。

 しかし、エルサレムにいたキリスト教徒だけは他の人たちとは違いました。彼らは軍隊が近づくにつれ、キリストの預言を思い出したのです。

 

エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。

 これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。 その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。 人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」(ルカ福音書21章20〜24節)

 

 キリスト教徒はこの預言を思い出し、その指示通りに都から離れ、ヨルダン川を越えて逃げたのです。エウセビオスは「教会史」(秦 剛平訳)の中で次のように書いています。

 

「エルサレム教会の人々は戦争前に啓示を介して、その他の人々に与えられたある託宣によって都を離れ、ペレアのペラという町に住むように命じられた。そこでキリストを信じる人々は、エルサレムからそこに移り住んだが、その為にユダヤ人の第一の首都とユダヤの全地は、聖なる人々から完全に見放された形になった。ついに、キリストや使徒達へのこの悪質な犯罪の為に、神の審判がユダヤに臨み、不敬虔な者の世代を人々の間から完全に断ったのである。」

 

 ローマ軍が近づいて来るという状態でも、エルサレムの都はまだ人の出入りが自由で、戦争の暗い影は見られませんでした。世界でも名高い難攻不落の堅固な城壁、完成したばかりの荘厳なエルサレム神殿が人々の不安をかき消していたのです。人々は、まだイスラエルの神が自分たちを守ってくれると思っていましたが、すでにその神の御子を十字架につけ、キリスト教徒を迫害し、神のみこころを退けていたことを知らなかったのです。エルサレムは、キリストの福音を聞いていたのに、その最後の神の招きも拒絶していたのです。

キリストはこう預言していました。

 

「『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎(いしずえ)の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである』 だから、わたしはあなたがたに言います。 神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます

 また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます(マタイ21章41〜43節)。」

 

「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった」。これは旧約聖書のダビデ王の詩編118篇の聖句です。 「家を建てる者たち」とは神の民イスラエルです。そして「石」とはキリストのことです。イスラエルはキリストを捨てたのですが、それが不思議にも礎となり、神の恵みは異邦人の方へと流れていきました。

 

 

過越(すぎこし)の祭り

 

 刻々迫るローマ軍を見て、キリスト教徒がエルサレムの都を去った時期は、奇しくも、かつてキリストが十字架につけられた、あの過越の祭りの時期でした。脱出するキリスト教徒とは逆に、大勢のユダヤ人たちが、過越の祭りのためにエルサレムの都に入って行きました。その一番混雑している時に、ローマ軍は都の出口を塞ぎ、包囲してしまったのです。瞬く間に飢えが始まりました。預言されていた神の怒りがこの民の上に下ろうとしていました。当時の様子を、ヨセフスはでこう書いています。

【写真はローマにあるティトスの凱旋門のレリーフです。七つの燭台(メノラー)をかついだローマ兵がユダヤ戦争の勝利を祝って凱旋しています】


「戦争勃興から終結までに捕虜になった者の数は九万七千に達し、包囲攻撃中に死んだ者の数は百十万だった。犠牲者数の大半は同胞ユダヤ人であったが、エルサレムの土着の者ではなかった。彼らは種入れぬパンの祭り(過越しの祭り)の為にユダヤ全土から集まって来て、突然戦争に巻き込まれたのである。あまりにも多くの者が集まりすぎた為、まず疫病が、そして後には飢餓が彼らの命を次々と奪っていった。…これらの者の大半はエルサレム外の土地から来ていた。そしてその時、運命の定めであるかのように、全ユダヤ民族が監獄に閉じ込められ、その結果、市中はかくも多数の人間が戦争の為に封じ込まれたのである。」ヨセフス「ユダヤ戦記」(山本七平訳)

 

 ろう城が長引くと、武装した暴徒たちの間で権力争いが始まり、都は武力で支配されました。閉じ込められた民衆は、こうした同胞の手によって次々と殺されていったのです。この暴徒たちによって、和平的解決を望んでいたユダヤ人指導者たちも次々と殺され、都の中は無法地帯となりました。内では飢えと恐怖、外ではローマ兵が待っており、もう脱出の道はなくなりました。 エルサレムはこの世の地獄と化したのです。 

 

律法の「のろい」

  

主は、遠く地の果てから、わしが飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせるその話すことばがあなたにはわからない国民である。その国民は横柄で、老人を顧みず、幼い者をあわれまず、あなたの家畜の産むものや、地の産物を食い尽くし、ついには、あなたを根絶やしにする。彼らは、穀物も、新しいぶどう酒も、油も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も、あなたには少しも残さず、ついに、あなたを滅ぼしてしまう。その国民は、あなたの国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲し、ついには、あなたが頼みとする高く堅固な城壁を打ち倒す。彼らが、あなたの神、主の与えられた国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲するとき、あなたは、包囲と、敵がもたらす窮乏とのために、あなたの身から生まれた者、あなたの神、主が与えてくださった息子や娘の肉を食べるようになる。(申命記28章49〜57節)」

 

 エルサレムの都は、長年の報いを受けようとしていました。再び律法の「のろい」がイスラエルに下ったのです。ローマ軍は、非常に残酷な軍隊で有名で、イタリヤからエルサレムにやって来ました。当時では地の果てほどの遠方です。 ローマのシンボルは「わし」です。 ローマ人の言葉はラテン語で、ユダヤ人にはわかりませんでした。神はこのローマ軍を用いて都を包囲し、律法ののろいを下したのです。エルサレムでは、この「のろい」に書かれた惨状そのままの出来事が実際に起こりました。人々はあまりの窮乏に、自分の子供の肉を食べるに至ったのです。


エルサレム陥落


 ついにエルサレムの最後の日がやってきました。ユダヤ人が誇っていた堅固な城壁は崩され、異邦人であるローマ兵たちが都になだれ込み、神殿は破壊されたのです。

ヨセフスはこう書いています。


「聖所が炎上している間、ローマ兵は、目に入るものは片っ端から略奪して回り、捕らえた者はすべて殺した。高齢者や著名人であっても憐憫(れんびん)の情や敬意の念はいっさい払われなかった。子供や老人、一般人と祭司たちが無差別に虐殺された。戦争はあらゆる階層の人々ーー憐れみを乞う者も抵抗する者もーーを巻き込み、破滅へと導いた。火はごうごうと不気味な音をたてて燃え広がり、倒れた者のあげる呻吟(しんぎん)がそれに入り混じった。丘が高く、炎上した建物が大きかった為に、全市が燃え上がっていると思われるほどだった。その時の阿鼻叫喚(あびきょうかん)ほど耳をつんざし、心胆を寒からしめるものはなかった。続々と集まってきたローマ軍団の兵士が挙げる歓声、火と剣に包囲された叛徒たちが挙げる助けを求める声、上方で取り残され、あわてふためいて敵のただ中に逃げ込み、死に直面した民衆の恐怖の声…。丘の上の者たちの叫び声に市中の者たちの叫び声が入り混じった。そして、飢えの為にやせ細り、おしのように押し黙った多勢の者は、聖所の燃えさかるのを見て、もう一度力をふりしぼり、深い悲しみと嘆きの声を挙げた。その声はペレアと周辺の山々にとどろき、おどろおどろしき音となって返ってきた。」ヨセフス「ユダヤ戦記」(山本七平訳)


 こうして、ユダヤ人の誇りであり、望みであったエルサレム神殿は、異邦人によって崩壊し、踏み荒らされました。谷は城壁の石が落とされて埋められ、神殿のあった所は更地となり、捕虜は奴隷として安値で外国に売られていきました。

 紀元73年、ついに最後の砦マサダが陥落し、ユダヤ戦争は完全に終結しました。今でもローマにあるティトスの凱旋門に、その時のローマ軍の凱旋パレードの様子がレリーフで見られます。ローマ兵がかつぐ大きな燭台(メノラー)が見えますが、それは神殿内に安置されてたもので、イスラエルのシンボルでした。

 こうして預言は完全に成就しました。十字架から30年という福音宣教の猶予期間の後、ユダヤ人は律法ののろいを受け、国を失い、離散(ディアスポラ)したのです。しかし、今回の離散は、前回のバビロン捕囚の70年間と比べて、非常に長く過酷なものとなりました。

 こうしてイスラエルは、来られていたキリストを退けて、再興のチャンスを逃したために、歴史の表舞台から消えたのです。もしこの時にキリストを心から迎えていたら、再興は成されていたでしょう。その大きな機会を自ら逃してしまった結果、そのチャンスは2千年も巡って来なかったのです。

 

バル•コクバの乱

 

 紀元135年、ユダヤ人はもう一度ローマ帝国と戦います。ローマ皇帝ハドリアヌスが、エルサレムを「アエリア・カピトリナ」と改名し、ローマのユピテル神殿を建設する計画を知り、ユダヤ人は激しく反発しました。その時、バル・コクバという男が、自分こそはユダヤ民族を救うキリストであると言い始めました。当時のユダヤ教の精神的指導者ラビ・アキバがその支持を表明したことから、人々の期待が一気に高まり、ユダヤは再び戦争に突入します。一時的に政権を奪還したものの、結局反乱は失敗し、バル・コクバは戦死、ラビ・アキバも処刑されました。これが「バル•コクバの乱」です。

 その結果、皇帝ハドリアヌスは、徹底的なユダヤ人弾圧を行い、ユダヤ暦を廃止し、エルサレムを「アエリア・カピトリナ」と改名し、ユダヤの地を、イスラエルの仇敵のペリシテにちなんで「パレスチナ」と改名しました。ユダヤ人への嫌がらせのために、わざとそういう名前をつけたのです。ユダヤ人はエルサレムに立入を禁止され、エルサレムへの帰還の夢はさらに遠のき、離散はさらに拡大しました。


置換神学


 紀元379年にキリスト教がローマ帝国の国教となってからは、次第にユダヤ人がキリスト教徒になることが難しくなって行きました。ユダヤ人がキリスト教徒になるなら、ユダヤ教を遵守することを止めなくてはならなくなったからです。つまり、ユダヤ教徒としてキリストを信じることができなくなってしまったのです。もしユダヤ人がキリスト教徒になるなら、ユダヤ教と決別し、異邦人社会へ同化し、ユダヤ人としてのアイデンティティを失うことになったのです。そのために、次第に教会にはユダヤ人キリスト教徒が少なくなって行き、教会は異邦人キリスト教徒で組織されるようになりました。

 いつしか教会は、ユダヤ人がイスラエルに帰還し、国を再興させるという律法の約束を信じられなくなっていました。しかし、神の御言葉は否定できません。そこで、イスラエルに関する全ての預言を、異邦人教会に置き換えるという置換神学を作り出しました。こうしてユダヤ人はのろわれて終わった民族とされたのです。これは聖書の私的解釈という大きな罪でした。

 こうしてユダヤ人は、教会からキリスト殺しの民として迫害されるようになったのです。迫害が増すと、ユダヤ人はさらにキリスト教を知ろうとしなくなりました。キリスト教国に住みながら、まったくキリスト教とは無縁で暮らしたのです。彼らにとって、イエスの御名は迫害を思い出させる恐ろしい名前となりました。確かにユダヤ人はキリストに対して盲目になりましたが、異邦人もまたユダヤ人に対して盲目になったのです。その結果、皮肉なことにユダヤ人は滅びなかったのです。彼らは壁を作り、異邦人社会に同化することなく存在し続けたのです。

 しかし、使徒パウロは、教会に対して、前もってユダヤ人の奥義をこう語っていました。

 

 では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」

 ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」

では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。

 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう

そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。

 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう

 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。

 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであってそうでなければ、あなたも切り落とされるのです。彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。

 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。

 こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」(ローマ11章7-27節)


 使徒パウロは、イスラエルがキリストを拒む失敗をしてくれたおかげで、全世界の異邦人は神の恵みを受けられ祝福されたのだと説きます。まさに、かつてアブラハムに与えられた預言の通り、アブラハムの子孫、キリストによって、世界中が祝福されるということが起こったのです。

 しかし、イスラエルがつまずいて倒れているのは、「異邦人の完成の時まで」であり、その時が来ると、異邦人に流れていた神の恵みはイスラエルに戻り、イスラエルは復活するというのです。預言者エゼキエルはこう語っています。

 

 主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」

 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」

 私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。(エゼキエル37章)

 

 使徒パウロがローマ書11章で語ったのは、このエゼキエルの預言の解き明かしです。このように、いつかイスラエルは絶対に再興すると、ここまではっきりと書かれていながら、教会は盲目になってしまったのです。


イスラエルの帰還


 今から百年ほど前に、ヨーロッパにシオニズム(イスラエルに帰還しようとするユダヤ主義)が起こり、信仰を持ったユダヤ人は少しづつイスラエルに帰還し始めました。しかし、当時荒れ果てた未開のパレスチナに行くことは、困難を選ぶ勇気が必要でした。当時の先進国に住んでいたユダヤ人の多くは、シオニズムを馬鹿にしていました。しかしその後、ドイツにヒットラー率いるナチスが起こり、進化論を根拠にユダヤ人を劣等人種として絶滅しようとし、約6百万人のユダヤ人を殺したのです。ユダヤ人のイスラエル帰還は加速しました。

 第二次大戦が終わり、もはやユダヤ人が安心して生きる事のできる土地はイスラエルしかないと、ユダヤ人は徹底的に思い知らされたのです。しかし再び問題が起こりました。イギリスの二重外交の結果、ユダヤ人とパレスチナ人との衝突が大きくなったのです。委任統治をしていたイギリスは、この問題を国連に委任してしまいました。国連は、イスラエルとパレスチナの分割案を提示しました。ホロコーストの事実が世界に明らかにされるにつれ、世論はユダヤ人に同情しました。 

 1948年、国連の採決によって、イスラエル国家を承認する決議が可決されました。こうして、イスラエルは約2千年ぶりに国家として回復したのです。しかし、この国連の分割案は、当然ながらアラブ周辺諸国の反発を招き、建国宣言の次の日から中東戦争が勃発しました。その時、アラブ諸国は石油を武器に世界に圧力をかけました。これがオイルショックです。日本でも石油の値段が跳ね上がりました。世界はその時、中東で戦争が起これば、世界経済が傷を受けることになると知ったのです。その時から全世界の目が、イスラエルに注がれ始めたのです。

 現在確かに、イスラエルは墓から引き上げられるようにして、世界中から集められ、約2千年ぶりにイスラエルに帰還しました。しかし、国は再建出来ても、彼らはイエス・キリストを知らず、体はあっても、その中に息はない状態で、今も霊的には死んだ状態です。しかし、時が来ると、神からのいのちの息が吹き込まれ、イスラエルが死者の中から復活する日が来るのです。

 その日、イスラエルは、彼らの王イエス•キリストを迎えて再興します。それはさながら死者の中からの復活のようだとパウロは言います。2千年前に逃してしまったキリストの受け入れを、今度こそ必ず成就するのです。

 このような歴史のしるしを持つ民はイスラエル民族しかいません。このようなことができるのもイスラエルの神しかいません。これは作り話ではなく、否定できない歴史的事実です。まさしくユダヤ人は神の存在のしるしなのです。キリストはイスラエルについてこう預言しました。


 人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」(ルカ福音書21章20〜24節)


 さて、神の恵みの福音はイスラエルから異邦人に移り、エルサレムから出て、ローマに伝えられ、西回りで世界を一周し、2千年かけて今やエルサレムに戻って来ているのです。現在、イスラエルではキリストを信じるユダヤ人が急増しているのです。彼らはメシアニック•ジューと呼ばれています。世界がキリスト教から離れているのに、イスラエルにはキリスト教が浸透し始めているのです。これも時のしるしです。


 さて、いずれ起こる「イスラエルの再興」の時、一体何が起こるのでしょう? それが終末の出来事です。


【終末について】に続く