日本の教会の歴史


キリシタン時代


 日本では戦国時代にカトリック教会が東回りで布教を開始しました。その時、日本にリバイバルが起こり、多くの日本人がキリストを信じて救われました。織田信長は宣教師を優遇していましたが、それは西洋のバビロン文明への畏敬のゆえでした。信長や秀吉の考えた「天下統一」とは、自分を頂点とするヒエラルキーを作り、日本を武力で統一し、平定しようとするバビロンの思考そのものでした。

 その後、信長の天下統一を引き継いだ徳川幕藩体制が確立すると、日本はかつての古代ローマ帝国のような鉄の支配体制となりました。その統一支配に障害となるのはキリスト教の信仰でした。人はみな神の御前に平等という信仰は、支配者にとって非常に都合の悪いものだったからです。キリスト教は禁教となり、恐ろしい迫害が起こりました。その迫害の厳しさは、世界にも類を見ないほどのものとなり、数多くの信仰者が棄教、あるいは殉教しました。

 しかし、キリシタンの信仰は非難されても、キリシタンたちの善行は非難されませんでした。その善行は後世に至るまで日本中であかしとなっています。それは彼らの残した御霊の実という大きな遺産です。

 1639年、日本は鎖国時代に入り、国全体がひとつの巨大な鎖の牢獄となりました。日本の民は身分を固定化され、人権を奪われ、互いに監視しあい、自由な発言、思想は許されず、逆らえばすぐに処刑されました。こうして日本は恐怖で支配され、権力に盲従する奴隷である限り生活を保証されるという、かつてのエジプトの家のようになり、正義の自由を完全に失ったのです。


明治維新と世界大戦


 それから約200年後、今度は西回りで福音がやって来ました。1853年、アメリカの使節ペリーが日本に開国を迫り、それを機に明治維新が起こったのです。進んだ西欧文明の発展に目を見張った日本は、今度は西欧に追いつけとばかりに鎖国を解き、文明開花に走りました。しかし、日本を何よりも魅了したのは、ルネッサンス以降に花開いた西洋のバビロン文明の力でした。

 厳しいキリスト教禁教時代が終わり、海外から宣教師が来日し、多くの信仰者が生まれ始めました。その信仰者たちの善行は、日本に大きな影響を与えました。人口数パーセントのキリスト教徒の行いの実が、世間のキリスト教への見方を大きく変えたのです。

 しかし、日本は天皇を現人神とするバビロン的な統一国家を目指し、列強諸国の植民地支配を真似し始め、アジア近隣諸国を植民地化して資源を奪い、世界征服を夢見始めたのです。日本教会はその悪を見抜けず、むしろ自らを騙して天皇崇拝を取り入れました。天皇崇拝を拒んで殉教する信徒もいましたが、大半の教会は迫害されないようにと権力に迎合しました。残念ながら、教会は地の塩にも世の光にもなれなかったのです。

 日本教会とは反対に、日本の植民地支配下の朝鮮教会では、多くの信徒が天皇崇拝を拒否して殉教しました。その原動力は、1905年に平壌(ピョンヤン)で起こっていたリバイバルの力でした。日本教会の指導者は、朝鮮教会の兄弟に対して、天皇崇拝をするよう働きかけました。

 第二次世界大戦が終わり、日本は完敗しました。その時、韓国教会では、迫害の故に偶像礼拝を行ってしまった聖徒たちが、すぐに主の御前に悔い改めて謹慎しました。彼らには神を裏切ったという罪の意識がずっとあったのです。しかし、日本教会では、そのような悔い改めはすぐには見られず、逆にもっと天皇に協力をしていれば良かったと悔いていたのです。日本教会の戦争責任が語られ始めたのは、戦後から何年も経ってからでした。

 戦後の両国の教会の歩みは対照的です。韓国教会は朝鮮戦争の中、北朝鮮から多くのキリスト者が南に移住し、国民の四分の一が教会に連なり、多くの人々が救われました。一方、日本教会は占領軍の影響で宣教師が来日し、一時的に隆盛しましたが、高度成長期には衰退しました。結果、信徒は国民の1%と以下という状態です。いつしか日本は「宣教師の墓場」とまで呼ばれるようになりました。


殉教者の意味     


 この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル11章38-12章2節)


 かつてのキリシタンたちや韓国教会の聖徒たちの殉教は、結局の所、無駄死にだったのでしょうか? キリストは十字架の向こうにある喜びのゆえに十字架を忍ばれました。本来その姿にならうのがキリストの弟子であるはずです。キリシタンたちも、韓国の殉教者たちも、エジプトには戻らず、御霊に従って荒野を選び、自分の十字架を背負って進み、神のみこころを行い、全うされました。彼らは神の約束を信じ、天を仰いで苦難を選びました。彼らは聖霊に満たされていたので殉教できたのです。それは人間の力ではありません。

 反対に、戦時中の日本の教会は御霊に逆らい、荒野から繁栄のエジプトに引き返しました。彼らは肉を得て、神に従って苦難を受けて殉教した民を愚かと思ったかもしれません。その上、戦後になっても、自分たちの罪が見えず、悔い改められず、何もかも水に流して忘れてしまいました。彼らは罪責という負の遺産を私たちに残しました。彼らはまるで、十字架にかかって死なれたキリストを見ていたパリサイ人たちのようです。パリサイ人は、キリストの十字架から30年間、繁栄のエルサレムで安らかに過ごし、罪を悔い改められませんでした。しかし、その後はどうなったでしょう? その罪はエルサレムの滅亡とユダヤ人の離散というのろいを残しました。

 日本の教会が今のような荒野になっているのは、むしろ当然ではないでしょうか?


私たちの先祖は罪を犯しました。彼らはもういません。彼らの咎を私たちが背負いました(哀歌 5章7節)


民族の罪


かつてイスラエル民族が、偶像礼拝のために律法ののろいを受け、バビロンに捕囚されたことは先に学びました。そのバビロンの地で生まれた預言者ダニエルは、預言者エレミヤの預言を読み、バビロン捕囚ののろいが70年間だと知ります。その時、ダニエルは悟りを与えられ、自分の罪だけでなく、自分の民族の罪をも告白して、この祈りを捧げました。


 私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。私は、私の神、主に祈り、告白して言った。

 「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。

 主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもので、今日あるとおり、ユダの人々、エルサレムの住民のもの、また、あなたが追い散らされたあらゆる国々で、近く、あるいは遠くにいるすべてのイスラエル人のものです。これは、彼らがあなたに逆らった不信の罪のためです。主よ。不面目は、あなたに罪を犯した私たちと私たちの王たち、首長たち、および先祖たちのものです。あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。これは私たちが神にそむいたからです。

 私たちは、私たちの神、主の御声に聞き従わず、神がそのしもべである預言者たちによって私たちに下さった律法に従って歩みませんでした。イスラエル人はみな、あなたの律法を犯して離れ去り、御声に聞き従いませんでした。そこで、神のしもべモーセの律法に書かれているのろいと誓いが、私たちの上にふりかかりました。私たちが神に罪を犯したからです。神は、大きなわざわいを私たちにもたらすと、かつて私たちと、私たちをさばいたさばきつかさたちに対して告げられたみことばを、成就されたのです。エルサレムの上に下ったほどのわざわいは、今まで天下になかったことです。このわざわいはすべて、モーセの律法に書かれているように、私たちの上に下りましたが、私たちは、不義から立ち返り、あなたの真理を悟れるよう、私たちの神、主に、お願いもしませんでした。主はそのわざわいの見張りをしておられ、それを私たちの上に下しました。

 私たちの神、主のみわざは、すべて正しいのです。私たちが、御声に聞き従わなかったからです。しかし今、私たちの神、主よ、あなたは、力強い御手をもって、あなたの民をエジプトの地から連れ出し、今日あるとおり、あなたの名をあげられました。私たちは罪を犯し、悪を行ないました。主よ。あなたのすべての正義のみわざによって、どうか御怒りと憤りを、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山からおさめてください。私たちの罪と私たちの先祖たちの悪のために、エルサレムとあなたの民が、私たちを取り囲むすべての者のそしりとなっているからです。

 私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。

 主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行なってください。私の神よ。あなたご自身のために遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです。」

 私がまだ語り、祈り、自分の罪と自分の民イスラエルの罪を告白し、私の神の聖なる山のために、私の神、主の前に伏して願いをささげていたとき、すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、私に告げて言った。「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。


 人は自分の罪は認められても、自分が犯してもいない先祖の罪を、自分が犯したかのように認めることは難しいものです。しかし、聖書によれば、人は自分の罪だけでなく、先祖の罪も負っているのです。ある世代が罪を犯しても、罰はすぐには下りません。神は忍耐して悔い改めを待っておられるからです。しかし、民族の罪は世代を超えて積もり、ある地点に至ると、さばきが下ります。

 パリサイ人だけでなく、出エジプト記のカナン人やエジプト人を見てください。イスラエル民族がエジプトで苦役に服していた400年の間、エジプト人もカナン人もその罪の罰を受けずに過ごし、自分たちの上に罪を増し加えていました。神はさばきに値する時が来るまで、彼らに忍耐し、その罪が積もるのを待っておられました。そしてついに罪の大きさが、さばきに至る時が来て、エジプトとカナンに、厳しい神のさばきが下りました。

 また、かつてのイスラエルを見てください。カナンをさばいたイスラエルも、偶像崇拝にふけりましたが、その世代がすぐにのろわれて離散した訳ではありません。その罪は何世代にも渡って積もり、ついにバビロン捕囚というのろいを受けました。

 その後、帰還したイスラエルでしたが、再びキリストを拒むという大罪にを犯し、さばきに値する時が来て、イスラエルは離散しました。それは聖書の歴史を見れば明らかです。 民族の罪は、悔い改めない限り、世代を超えて積もり続けるものなのです。

預言者ダニエルは、エレミヤのこの預言を知った時、人ごとのようには感じませんでした。ダニエルは、神がなぜイスラエルを怒っておられたのかを悟り、自分の罪と自分の民の罪深さを悲しんで、悔い改めたのです。その時、ガブリエルがやって来て、彼に預言を伝えました。ダニエルが神に愛されていたからです。神は罪を悔い改める者を愛されます。それは自分の犯した罪だけでなく、その民族の罪から、アダムの原罪にまでさかのぼる悔い改めです。もし私たちがアダムやエバだったら、間違いなく同じ罪を犯していたはずだからです。ダニエルは自分の持つ真の罪をすべて悔い改めたのです。

 日本人の思考では、死んだらみな神になり、その罪は水に流されます。その「神道的」な考え方は日本人ひとり一人の心の奥底に入っています。罪を忘れてあげることが愛や優しさだと思っているのです。しかし、それは真理ではありません。罪は悔い改めない限り、そのまま残り、積もって行くのです。しかし自分の罪をさばき、神に悔い改めれば許されるのです。ですから、罪を軽くあしらい、人に悔い改めさせないことは、実はその人に神のさばきを受けるように仕向けているのと同じです。たとえ厳しくとも、罪を悔い改めさせることこそが真の愛なのです。


 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。(ローマ2章5節)


 カトリックでは懺悔という形で悔い改めの形式は残っていますが、プロテスタントではその概念はさらに希薄になっています。最近、日々の悔い改めを軽視し、救いは 「キリストの十字架があるから十分」と考えている教会が多くなっています。しかし、もしキリストを信じた後は、罪を悔い改めなくても、本当に神の国に入れるというのなら、なぜキリストは黙示録において、教会に向かって悔い改めを命じているのでしょう。なぜ使徒は教会に対して御怒りを告げたのでしょう。日々の悔い改めは、主の喜ばれることであり、主の命令なのです。それを拒むことは聖書と御霊に背く罪です。

 真のキリストの弟子なら、自分たちの罪だけでなく、先祖の罪も覚えて、悔い改めなければならないのです。それはこの世の未信者がすべきことではなく、神の知識を持つ神の民がすべき責務なのです。もし教会が、自分の罪や国の罪を水に流して、この国に罪を増し加えるなら、この日本を滅ぼすのはまさに教会自体ということになります。なぜなら、悔い改めを教えることができるのは、教会の以外にはないからです。


 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。(第一コリント11章31-32節)


日本教会の未来

 

 キリスト時代の律法主義者たちは、神殿を誇り、貧しい人を卑下し、自己義認に熱心で、善行を軽視し、悔い改める必要性を少しも感じていませんでした。自分たちは神に認められていると思っていたからです。

 この光景はどこかで見たことがないでしょうか?

 現代の日本教会は、2千年前のエルサレムに似てないでしょうか?

 どの教会も会堂建設が第一で、羊は養われていません。

 信仰義認にあぐらをかき、善行は軽視され、日々の悔い改めは強調されません。

 教会堂を建てることが教会を立てることのように思われています。

 

 行いのない信仰はむなしいことを悔い改めるべきではないでしょうか?

 自分の罪と国の罪を悔い改め、地の塩になるべきではないでしょうか?

 この終末の時代に、日本の教会に真の悔い改めと聖霊の注ぎは再び起こるのでしょうか 

 現状を見ると、リバイバルはそう簡単ではないと思います。

 戦後70年目がもうすぐやって来ます。

 私たちのバビロン捕囚は終わるのでしょうか? 

 それともこのまま終末を迎えてしまうのでしょうか? 

 このような「時のしるし」の顕著な時代に、教会は預言通りノアの日の様に、

 ただ食べたり飲んだりして、安住しているだけなのでしょうか? 

 

 助け主なる聖霊によって私たちの目が開かれることを、切に祈りたいと思います。

 

【ローザンヌ誓約】に続く