教会のリバイバル


助け主なる真理の御霊


 父、御子、御霊という三位一体の第三位格である聖霊の重要性は、聖書を読めば明らかです。あえて聖霊についての説教を避ける教会は、バランスを欠いた不健康な状態です。しかし、逆に聖霊についてだけ説教したり、ある特定の事柄を強調する教会も、同じようにバランスを欠いていて不健康です。教会の使命はキリストの十字架をあかしすることです。キリストの栄光を現し、あかしするのは聖霊です。


 わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

 わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。(ヨハネ16章7-14節)


 キリストは十字架にかかる直前に、ご自分が世を去ってから、御霊を遣わすと弟子たちに告げられました。ですから、どの教会にも御霊は遣わされています。そのお方は真理の御霊であり、私たちが御言葉を理解するのを助け、この世に罪、義、さばきを教えます。御霊が御言葉を通して語ることを教会は聞かなくてはなりません。御霊に逆らえば御霊は消え、教会はいのちを失います。


 御霊を消してはなりません。(第一テサロニケ5章19節)


御霊の新生の働き


 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。(ヨハネ3章6節)


 人は肉によって生まれていても、霊的には罪に死んでおり、神から離れて失われた状態です。肉の人にとって、キリストの十字架は愚かであり、つまずきです(第一コリント1章23節、ガラテヤ5章11節、第一ペテロ2章8節)。そんな肉の人に真理をあかしし、悟りを与え、霊的に新しく生まれさせるのは御霊の働きです。それは人の行いの結果ではなく、御霊の働きかけの結果です。そして、新生した人の信仰は、心にとどまらず、告白となって公に表現するほどになります。信仰義認は神の恵みであり、御霊のわざなのです。人が新生すると、御霊はその人の中に内住されます。本当に信じて救われた者は、その内住の御霊の語りかけを聞き、御言葉に従うようになり、いずれ御霊の実をみのらせ、徐々に聖化されて行きます。肉のままの人は、肉に従い、御霊に逆らいます。


 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10章9-10節)


 では、「イエスは主」と告白した者は、誰でも御霊によって生まれた者と言えるでしょうか? 残念ながら、人は罪人なので、別の動機から信仰告白をすることもあります。親が喜ぶとか、教会員になりたいとか、肉的な動機で信仰告白をする人もいるでしょう。ですから、信仰告白をした者がみな御霊によって生まれた者だと早合点してはいけません。もちろん、最初は信じていないのに信仰告白して、後で本当に信仰が与えられることもあります。その告白をすぐにさばいてはいけません。しかし、人が御霊によって生まれた人かどうかを判断する必要がある場合あります。その時は、その人のことばと行いの実を見て判断すべきです。

 また、神やキリストを心の底では憎みながらも、偽りの信仰告白をして教会にとどまる者もいます。そういう人は表向きは立派な人でも、密かに御霊に逆らい、御言葉に背き、毒麦となり、にせ預言者やにせ兄弟になるでしょう。


御霊のバプテスマ(参考:「栄えに満ちた喜び」D.M.ロイドジョンズ/地引網出版)


 この世の地上の教会には、御霊によって生まれた者も、肉によって生まれた者も、同時に存在しています。麦も毒麦も一緒にいるのです。しかし、真の神の教会は地上にはなく、国も時代も超えてキリストと共に神のうちに隠されています。教会はキリストを頭とする御体にひとり一人がつながれて、ひとつとなる集まりです。キリストは頭であり、教会はからだです。男と女の奥義は、キリストと教会との関係なのです。


「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。(エペソ5章31,32節)


 主の日には、教会は栄光の内に現れ、キリストはご自分が贖った教会を花嫁としてめとり、ふたりはひとつになります。その時、創世記の奥義が成就するのです。この御体が完成する日、それが異邦人の完成の時です。ですから、御霊によって生まれた者は、ひとり一人がキリストの御体の各器官なのです。その器官にはそれぞれの働きがあり、お互いが尊敬し合わなければなりません。


 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(第一コリント12章27節)


 しかし、この御言葉を盾に取り、信仰告白者は誰でもひとり一人が器官なのだから、その兄弟が悪を行っていても、さばいてはならないという様に考える人もいます。しかし、使徒書簡を見ると、行いの悪い信徒とは決して交際しないようにと書かれています。なぜなら、不品行を行い、キリストの御体を汚す者は、御霊による兄弟とはいえないからです。がん細胞は、もともと自分に与えられた使命を果たさず、自分の増殖のために働くものです。それは自己中心という罪です。それは教会を不健康にします。


 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。(エペソ2章18-22節)


 御霊は、キリストという礎石と、使徒と預言者という土台の上に、聖徒ひとりひとりを立て上げ、体を作られます。それは御霊によって神の宮となります。ですから、聖さを求めなければなりません。

 こうして、御霊は人を新生させるだけでなく、新生した者をキリストの御体につなぎ、神の宮を建て上げるという役割を持ちます。こうして今に至るまで、御霊はキリストの御体なる教会を作り続けているのです。御霊が新生した人をキリストの御体につなぐ時、御霊は私たちをキリストにつなぐバプテスマを授けます。これが御霊のバプテスマです。


 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。(第一コリント12章13節)


聖霊のバプテスマ


 御霊のバプテスマと混同しやすい、もう一つのバプテスマがあります。


 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。(マタイ3章11節)


 バプテスマのヨハネは、自分が水でバプテスマを授けるように、キリストは聖霊でバプテスマを授けるだろうと告げました。キリストは復活後、昇天直前に、弟子たちにこう予告しました。


「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒 1章5節)


「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒 1章8節)


 キリスト昇天から10日後のペンテコステの日、この父の約束を待って祈っていた教会に、キリストは天から聖霊のバプテスマを授けられました。教会はその日、驚くほどの変貌を遂げます。かつてキリストを見捨てて逃げ出していた臆病者の弟子たちが、この日を境に別人となり、力強いキリストの証人となって宣教に出て行きました。その教会の働きは「使徒の働き」に書かれています。

 聖霊のバプテスマの目的は、キリストの証人となる力を授けるために、キリストご自身がなさるみわざです。それは人間の熱意の力ではなく、神の御力です。この証人となる力を与える聖霊のバプテスマと、新生のための御霊のバプテスマを同一視する教会は多いです。そういう教会は、人は新生したと同時に聖霊のバプテスマも受けていると主張します。しかし、聖霊のバプテスマは、人にキリストの証人となる大きな力を着せるものです。もし信じると同時に聖霊のバプテスマが全員に与えられているのなら、クリスチャンはみな、信じると同時に殉教も怖れないほどの別人に変貌するはずです。しかし、そうでないことは明らかです。御霊のバプテスマと聖霊のバプテスマは全く違うものなのです。もちろん、新生と同時に聖霊のバプテスマを受ける人もいますが、新生していても聖霊のバプテスマを受けていないことはあるのです。

 聖霊のバプテスマは初代教会だけでなく、今に至るまでずっと、世界中の信仰者に授けられてきました。今日も世界中のどこかで、キリストによって授けられているはずです。教会の歴史をみれば、低迷した教会をいつも力づけてきたのは、キリストから送られて来るこの聖霊のバプテスマの力だったことが分かります。

 聖霊のバプテスマは個人で受けることもあれば、ペンテコステの日のように教会全体で受けることもあります。また、過去には地域や国が受けることもありました。例えば、1700年代のイギリスの大覚醒は、国自体が変えられた大リバイバルでした。


 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ 11章10-13節)


 さて、ここで主が語られている「聖霊」を求めることは、未信者に新生できるよう御霊を求よ、と言っている意味ではありません。この言葉は「子どもたち」に向けられたものです。子どもたちとは、すでに信仰を持つ神の子たちのことです。しかし、子どもたちは飢え渇いているのです。キリストはそんな渇いている子どもたちに向けて、神に聖霊を求めよと命じられたのです。聖霊を熱心に求め、捜し、請うなら、父なる神は子どもに聖霊を与えてくださると約束されたのです。もちろん、御霊に逆らって、父なる神を悲しませている状態で聖霊を求めても、決して本物は与えられないでしょう。ですから、もし聖霊を求めても与えられないのなら、神が与えない理由を自分たちの内に捜す必要があります。


御霊の賜物の現れ


 聖霊のバプテスマを受けた時、異言や預言などの御霊の賜物が同時に現れることがあります。その御霊の賜物を聖霊のバプテスマを受けたしるしと取る教派もあります。しかし、もし賜物を頂いていても、その人が力強いキリストの証人となっていないのなら、それは聖霊のバプテスマのしるしとはいえないでしょう。聖霊のバプテスマの目的は、第一にキリストの証人となる力の付与だからです。

 ステパノの殉教を見ると、彼は御霊に満たされ、その顔は御使いの顔のように見えたと書かれています(使徒の働き7章)。彼はキリストを大胆にあかしして殉教しました。殉教の力はキリストが与える聖霊の力によるものです。たとえその人に御霊の賜物の現れがなくても、それは聖霊のバプテスマの現れ以外の何ものでもありません。

 聖霊のバプテスマはキリストが授けるものですが、御霊の賜物は御霊が授けるものです。使徒パウロは御霊の賜物のリストを書いていますが(第一コリント13章)、賜物は愛がなければそれ自体には何の値打ちもないと教えています。賜物を互いに競って乱用し、愛を見失っていたコリント教会に対し、使徒は厳しく叱責しました。

 御霊の賜物は、人や教会の徳を高めるために、御霊ご自身がそれぞれに分け与えられるプレゼントです。異言は自分の徳のため、預言は教会の徳のためにあります(第一コリント14章)。ですから、賜物を求める動機が悪ければ、使用法が悪くて良い結果にはならないでしょう。賜物は自分の信仰が正しいから与えられるしるしではないのです。でなければ、賜物にあふれていたコリント教会が、使徒から叱責を受けるということはなかったはずです。

また、聖霊ではない別の霊の現れもありえます。使徒は、霊だからといって何でも信じてはいけないこと、真理の霊か偽りの霊かよく見分けるようにと警告しています(ヨハネ第一4章6節)。


教会のリバイバル


 どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押えておられるのですか。まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。主よ。なぜあなたは、私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを恐れないようにされるのですか。あなたのしもべたち、あなたのゆずりの地の部族のために、どうかお帰りください。あなたの聖なる民がこの地を所有して間もなく、私たちの敵は、あなたの聖所を踏みつけました。私たちは、とこしえからあなたに支配されたことも、あなたの御名で呼ばれたこともない者のようになりました。(イザヤ書63章15-19節)


 教会のリバイバルの意味は、低迷している地上の教会が聖霊のバプテスマを受け、再び立ち上がることを指します。教会は常に悪魔の攻撃にさらされています。目に見える外的な迫害だけでなく、にせ預言者、にせ教師、不従順な子らによる内部の攻撃も受けます。時に教会はその罠にはまり、御霊に逆ってしまいます。すると、御霊は消え、神の力は去ります。そこで焦って人間的な手段を講じても、カルト宗教は成功しても、教会は失敗します。代わりに敵は隆盛します。

 いのちを失い、荒れ果てた教会を見て、心を痛めて悔い改める者たちが現れるまで、教会はリバイバルしません。御霊に逆らった罪を捜し、悔い改め、再び天に顔を向け、聖霊を求めて祈り始める時、教会はペンテコステを待つ教会となります。リバイバルとは、あのペンテコステの日に教会が聖霊のバプテスマを受けて、キリストの証人として立ち上がったように、瀕死の教会がキリストによって聖霊のバプテスマを受け、いのちを吹き返すことです。


 あなたを神の約束によって励まそう。イザヤ六十四章五節には何と素晴らしい言葉があることか。「あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行なう者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。」このことを神に感謝する。神が私の言うことを聞き、私の願いを叶えて下さることは、どうやって分かるのだろう? ここに答がある。——神はある人々を迎えてくだる——「あなたは迎えてくださいます。」神はそうすると約束された。誰を神は迎えるのだ? 正義を行なう者、そして喜んでそうする者である。神は、神を待ち望む全ての者と会われる。四節の終わりにそう書かれている。これについて疑わないで頂きたい。友よ。ヤコブの言うことを聞こう。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます」(ヤコブ四・八)。これは真実である。確かである。神はこの様な者たちと会われる。「もし、あなたがたが心を尽くして私を捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」(エレミヤ二九・一三〜一四)。神を探したことがあるか? 神を見つけたことがあるか? 神はそれを約束して下さっている。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。「あなたは迎えてくださいます。…あなたを忘れない者を。」もちろん、神はそうなさる。神の御名は誉むべきかな。 (参考:「リバイバル」D.M.ロイドジョンズ/いのちのことば社)

 

【日本の教会のリバイバル】に続く